深夜の廊下は静まっていた。
あの満月の夜から幾日経っただろうか。月は痩せ細り、今はチェシャ猫の口のように笑ってぽっかりと浮かんでいる。
「風邪をひきますよ」
ふわりと肩に、あたたかい上着が掛けられた。
「眠れないなら、ミルクでもいれましょうか?」
「オペラ」
足音もなく、オペラは僕の傍らに立っていた。
相変わらず、陶器のような整った顔に感情は見つからない。けれど、どことなくさみしげに思えてしまうのは、僕が、さみしいからだろうか。
「あいつのことを考えていたでしょう?」
「うん……」
お見通しかあ、と笑うけれど、愁眉は開かれない。
「ありがとう、オペラ。許してくれて」
「若頭の命令に従っただけで、あいつのことは許してませんけどね」
二度はない、と鋭く吐き捨てる。
意識のなかった僕は知らないけれど、それはもう大変だったらしい。ちゃんと躾けろと、先生に叱られたのは記憶に新しい。
「あはは……だ、だよねえ」
渇いた笑いが夜の空気に沈んで消えた。
俯いていると、脇の下に手が入れらた。ひょいと抱き上げられる。
「わっ、わっ、なに?」
「足、冷えてますよ」
ほんとうに、風邪を引いてしまう。そう、有無を言わせず、寝室へと運ばれる。
「あ、ありがとう……」
そっとベッドに宝物のように置かれた。
そのまま離れるかと思いきや、オペラは僕の体の横に手をつき、身を寄せてきた。
「急に、どうしたの?」
まっすぐに向けられる眼差し。重く絡みつく空気は、肌が覚えている。分かるけれど、突然のことに、戸惑いが勝る。
体重を掛けないよう、覆いかぶさる影。軋むベッドの音に、心臓の鼓動が一拍速くなる。
「他の男のこと考えてて、私が嫉妬しないとでも?」
「ひゃっ!」
言葉とともに耳の淵に歯が立てられた。
突如与えられた性感に、体の下でシーツがふしぎな模様を描く。逃げようにも、寝台とオペラの体に挟まれて、身動ぎひとつできない。
「お、おぺら、その……まだ……」
よほど、情けない顔をしていたのだろう、鼻先でオペラが困ったようにほほえんだ。
「さいごまでしませんよ……触るだけ」
言葉とともに口元に手が差し出される。
ためらいながらも、指先を覆う手袋に慎重に歯を立てると、オペラは目を細め、ゆっくりと手を引き抜いた。日に焼けない白い手のひらが、脈を確かめるように、首筋に触れる。
ぬくもりが伝わり、じんわりと目の奥が熱くなった。
「オペラ……」
「イルマがきもちいいことだけするから」
物欲しげに、薄く開いた僕の口を、あやすように啄まれる。やさしく触れて、離れて、からかうみたいに、また触れる。ふ、と合間に溢れた吐息を、甘く吸われた。心地よさに頭の芯が痺れるよう。
「ん、ぅ……」
ぼう、としている間に、熱い舌が入り込み、くちゅりと濡れた音を立てて搔き回された。気持ちよさに、思考がとろとろと蝋燭みたいに溶けていく。体に力が入らない。体まで蝋燭になったみたいだ。
くちづけが途切れ、ひやりとくちびるが冷える。さみしさを覚える前に濡れたくちびるが首筋に添わされた。
いつの間に。
パジャマの釦はすべて外され、はだけた胸元を、手のひらが撫でる。
目の前に、オペラの首筋があった。首を持ち上げ、そっとくちびるを押し当てた。鼻腔をオペラの肌のにおいが通り抜けて、喉の奥がきゅっとしまった気がした。たまらない気持ちで舌を伸ばすと、じんと舌先が痺れた。ひどく、あまい。
オペラが僕のことを飽きずに舐める気持ちが少し分かった。好きな相手の肌は、あまく感じられるんだ。
なんだか、たのしくて、うれしくて、飴玉のようにぺろぺろと舐めていると、肩を押して、引き離された。
「それ、やめてください」
「どうして?」
「…………我慢できなくなるんで」
別に、いいのに。
口に出す前に、顔に出ていたようだ。たしなめるように、頬を甘く噛まれた。
「治ったら、してもらう」
包帯越しに、傷痕を撫でられて、ふるりと震えた。
一瞬、こみ上げた感情は、くちづけに封じられる。でも、それでいい。何を言っても、傷つけてしまう気がして、僕らはそのことについて、まだ何も話せずにいる。
やさしく、愛情を伝え合うだけの触れ合い。
淡い官能は肌に滲んで消えて。愛されているという実感だけが、体を満たしていく。
不意に、オペラが動きを止めた。つられて見上げると、ためらいがちに口を開く。
「きず痛みました?」
「え……? ううん、大丈夫だよ?」
どうして、と首を傾げるけど、オペラは叱られた子どものような顔のまま、幼い声で言った。
「イルマが、泣いてるから」
指で頬を撫でられて、そこが濡れていることに気づいた。
「あれ? ほんとだ……なんでだろう」
感情の伴わない涙は冷たくて。
するすると頬を滑っていくそれを、オペラが指先で受け止め、自分の口元へと運んだ。
それを見ていたらまた、泣いてしまいそうになって。
静かに見上げた満月の夜を、思い出した。