映画『正欲』を鑑賞して

南田 波
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公開:2024/11/9

 朝井リョウ原作の『正欲』が2023年に映画化された。この記事では、私の作品に対する感想を特に印象に残るシーンをピックアップしながら語っていきたいと思う。ネタバレが気になる方は作品を鑑賞してから、この記事に目を通していただきたい。

 この作品の「主人公」を決めるのは難しいが、桐生夏月視点で物語が動く場面が多いため、桐生夏月が特に印象に残る人物になるだろう。夏月は水に性的に惹かれる人で、その事実を周りに隠しながら生きている。作品の中でもその事実を知るのは、同じく水に対して性的に惹かれる佐々木佳道だけである。

 私は、この作品で特に惹かれるシーンが2つある。ひとつは中盤で、人間と付き合おうとしたが駄目だったと告白する佳道に対し、夏月がポツリと言ったセリフだ。

命の形が違っとるんよ。 地球に留学しとる感覚なんよね、ずっと。 自然に生きられる人からしたら、この世界はすごく楽しい場所なんだと思う、私が傷つくひとつひとつが楽しくて。 私も、そういう目線で世の中を歩いてみたかった。

映画『正欲』

 私は、夏月や佳道のように水に対して性的に惹かれることはないけれど、「地球に留学してる感覚」というのはとてもよくわかる。たぶん、私もある視点から見たらマイノリティーで、この社会にどうしても馴染めない感覚を持っているからだ。そして、このセリフはおそらくそういう「社会に馴染めない感覚」を持つすべての人に刺さるセリフとして書かれている。私(たち)は、楽しむために演出されたものでどうしたって傷ついてしまう。そういうものがこの世界にあることが、時に許せなかったりする。ただ、そういうものは日々大量に生産と消費が繰り返されて、抵抗する気力が失われていく。そういう世界に生きている。

 そして、特に印象に残るシーンのもうひとつは、検事である寺井と夏月の最後のやり取りだ。寺井が、水に性的な関心があるなんてことは「まあ、ありえないですけど」と切り捨てたあとである。

自分がどういう人間か人に説明できなくて息ができなくなったことってありますか? 生きるために必死だった道のりを「ありえない」って簡単に片付けられたことありますか? 誰に説明しても分かってもらえない者どうし、どうにか繋がり合って生きているんです。 あなたたちが信じなくても、私たちはここにいます。

映画『正欲』

 私は「正義の反対は、また別の誰かの正義なのか?」という問いに「「そうではない」と強く言い切っていい時がある」と答えたい。私たちは誰かの存在を否定してはならない。人権の蹂躙だけは決して許されない。あなたの (わたしの) 理解が及ばない人を、「理解ができない」といって切り捨てることは、なんの「正義」でもない。理解ができなくても、その人はこの世界で存在し、生きている。

 私自身も自分のことが人に説明できない。説明できないままこの世界を生きている。ただ、何かと、誰かと、薄くゆるく繋がっている感覚だけ持ち合わせている。自分が孤独だと感じても、似た境遇にある人はどこかにかならずいる。それがすなわち孤独を守れる手段なのだと思う。

 話が少し逸れるが『スパイの妻』という映画がある。作品の詳細は省くが、その作品の終盤でこういうセリフがある。

先生だから申し上げますが、私はいっさい狂ってはおりません。 ただ、それがつまり、「私が狂っている」ということなんです。

映画『スパイの妻』

 残念ながら、私たちの社会では、「真っ当さ」に「狂っている」という評価がくだる瞬間がたくさんある。「真っ当さ」は、欲望の前で、権力の前で、焦りの前で、簡単に否定される事がある。

   『正欲』を鑑賞して、「真っ当にある”生”」にどんな視線が向けるべきか、あらためて考え直すときが来ていると感じた。今、自身の存在を隠しながら生きてきた人が、ある場所では存在を認められつつも、別の場所ではたくさんの石が投げられている状況にある。私たちは「真っ当さ」を捨てずに次の時代へ継承する責任がある。

 自分が自分の人生を歩んでいるように、他の人もその人の人生を歩んでいる。それは、どんな理屈を引っ張り出してきても「ありえない」で片付けることは決してできない。