高校2年生の夏、野球部をやめた。
正確な日付は覚えていないが、7月の末ごろだっただろうか。理由はシンプルで顧問と反りが合わなかったからだ。
僕たち部員はこの顧問(以下、A氏)を追放しようとしていたが、それに失敗し、結局は同級生も含め3人やめた(後に1学年下の部員も数人やめたという話を聞いた)。
A氏は2学年上(つまり自分が1年生の時の3年生)の代でも追放されており、数年間は部活動の顧問をしていなかった。いわば前科がある。
A氏は追放されたがその後、もう一人野球経験のある顧問(以下、T氏)がいたので、そのT氏が後を引き継ぐ形で部が運営されていた。
自分が入学したときには既にT氏が顧問となっていた。しかし1年生から2年生へ進級する時にT氏が他校へと転任になった。
そう、ひとりしかいなかった顧問がいなくなってしまったのである。顧問がいなければ部活動は続けられない。そうして自分が2年生に進級する時に、A氏が再び顧問として舞い戻ってきた。
(ちなみに4月にはB氏という野球経験のある教師が赴任してきて顧問となっており、A氏とB氏の2人体制となっている。)
(テキストでは伝わらりづらいので画像がこちら。)

A氏は典型的な昭和の顧問で、年齢は50歳を超えていた。浅黒く日焼けしており、年齢を感じさせない嫌な元気があった。
僕はこのA氏のことを「進化しないポケモン」と呼んでいる。昨今では時代の煽りを受けて、変化する教師も少なくないが、極稀にA氏のような何もアップデートされないタイプの人間がいる。
ここからは、覚えている範囲でA氏の言動を箇条書きにする。まぁ、それなりにひどかったことを記憶している。
木製バットを生徒の体すれすれめがけて投げる
不甲斐ない投球をしたとして、1年生投手の胸倉をつかんで持ち上げる
夏合宿中に生徒が倒れ、救急車で搬送される(学校に救急車が来たことは1度だけではない)
搬送された生徒がICU(集中治療室)に入り、意識がなくなった(後に回復し退院している)
保護者を部外者と呼ぶ
3年生が最後の大会で敗退した後、「お前らのやっていた野球は結局お遊びだったんだな」と発言する
予定表にあったオフの日がなくなり、「オフをオフと思うな」という迷言が飛び出す(これはのちに語録となった)
などなど、およそ教育者だとは思えない言動のオンパレードだった。
普通の感性からすれば、これは異常だと思う。
しかし、悲しいことに日本ではこのような(むしろこれよりも酷い)野球部の顧問が数多くいる。広陵高校の一件は記憶に新しいだろう。
そう、珍しくはないのである。
自分は公立高校だったので、まだこの程度だったが、私立の強豪校なんてこの比ではないのだろう。(大学で知り合った関西の強豪校出身の選手は、ベルトで体を締め付けられたことがあると語っていた。)
調べてみると高野連は各都道府県連盟から年間1,000件以上の報告書を受け取ることもあるという。広陵高校は氷山の一角で、その下には報告書にはならなかったケースが多く埋もれているのだろう。

追放に失敗するまでの経緯を書こう。3年生が引退し、2年生の僕らの代になった。追放するのはこのタイミングしかないと思った。
A氏に対する僕たちの要求はこうだ。
「あなたとは野球ができないので、新しく赴任した若いB氏に顧問を任せ、退いてください」
だが、A氏に直談判する前に、新しく僕たちのメインの顧問になってもらおうと思っていたB氏に先に話を通そうと思った。
がしかし、ここが上手くいかなかった。
B氏もA氏に負けず劣らずヤバかったのだ。
すんなり折れてくれるかと思いきや、そうはいかず長々とエモーショナルな説得タイムが始まり、泣き落としのような話が始まった。
例えばこんな具合だ。
「俺の前任校(自分たちの学校よりも偏差値がだいぶ低く荒れた公立校)はもっとヤバくてさ、挨拶もできねぇようなクソガキ達と泥にまみれながら野球してさ、そいつらが自立してさ、甲子園行きたいですって言うんだぜ。」
「お前らのほうが頭もいいし、野球もうまいよ。でもなんでそのお前らが諦めちゃうかな。俺は悔しいよ。お前らなら甲子園目指せるよ。」
これをエモーショナルな説得と言わず何というのだろう。
そして、この説得を聞いて思ったことは今でも忘れていない。
「は?」
これだけだった。本当に意味が分からない。なんら論理的でもなければ、説得力のかけらもない話を、長々とされただけだった。
そもそもなんで勝手に甲子園出場が目標になっているのか意味が分からない。
僕らはちょっと強い時期もあるぐらいの普通の公立校で、直近の最高成績は夏大会での2勝だ。
何事にも踏むべきステップがある。
問題は目標設定が飛躍しすぎていることだ。公立校が甲子園を目指すのは、偏差値45の状態で東京大学を目指すようなものだ。
そして何より不思議に感じたのは「部活動が顧問のもの」になっていることだ。野球をするのは部員である僕らであり、顧問ではない。部活動は顧問の自己実現のための道具ではない。
とまぁ、このようにA氏とB氏どっちもヤバかったというオチである。
僕ら(僕)は最初から負けていたのだ。
窮地に立たされた僕にとって、
「A氏かB氏どっちがいい?」
という質問は
「底に穴が空いた船か、帆に火のついた船、どっちがいい?」
という質問と同じなのだ。
答えは「どっちも嫌」だ。
このタイミングで僕は敗北を悟り、野球部にはどんな形でも残れないなぁと思ったことを鮮明に記憶している。
その後、話はまとまらず僕を含めた同級生3人が退部した(うち1人はフライングで退部した)。
と、ここまではただの思い出話で、しょうもない愚痴である。
本当に書きたいことはここからだ。
この体験から僕は何を思い、何を学べたのか。
それは「自分が参加しているゲームのルールを知ることは大切である」ということだ。
ゲームのルールとは、「そのゲーム内では何が勝利条件で、何が決定打となるのか」といったことだ。
遊戯王などのカードゲームを想像してもらえると理解しやすいと思う。
勝利条件は相手のライフポイントをゼロにすることである。そして、決定打となるのは攻撃力の高い大型モンスターで、そのカードをサーチするカードも警戒しなければいけない。勝ち筋と言い換えてもいい。
このように自分が参加しているゲームには必ずルールがある。
例えば、大学受験というゲームのルールはシンプルで「限られた期間で勉強し、本番で高得点を取る」これだけだ。
満点を取る必要はなく、高得点を取れればそれでいい。
そのためには捨て問(正答できなくてもよい問題)があり、あまりに広範囲をカバーしようとすると却って効率が悪化する。いわゆる努力の逓減曲線がある。

翻って、顧問追放運動というゲームのルールは何だったか?
僕たちの勝利条件は学校組織からの辞令による顧問の解任、もしくはA氏が自主的に顧問の座から降りることだった。(そして後者の線は限りなく薄い)
また、決定打となるのは間違いなく「校長への直訴」だった。そして、おそらくこれが勝ち筋だった。
「教育委員会」ではなく「校長」である。
なぜならば校長は学校教育法第37条第4項に基づき、校務を監督し、職員に職務を分担・命令できるからだ。そして部活動顧問はこれに含まれる校務で、勤務時間内の交代や免除を指示可能である。
また教育委員会は全体方針(例: 部活動指導員の配置)を策定し、学校を指導・監督するが、個別教員の顧問辞令は出せない。
レポートラインは校長→教育委員会であって、校長の手に負えない場合は教育委員会に指示を仰ぐ形になるだろう。
また、顧問の追放を達成するために最良な打ち手はなんだったのだろうか?
それは保護者と部員の連名でドキュメントを作成し、A氏やB氏に悟られない形で校長にサイレントで提出することだ。
またドキュメントには「重大な事件と捉えているため、誠実な対応がなされない場合は報道機関に情報提供をする」といった文言を添えてもいいだろう。
学校という組織は世間体を気にするため、教育委員会へのレポートが早くなるかもしれない。
そうなれば教育委員会を巻き込み、事件が一つの高校の中に閉じなくなる。揉み消すことも難しくなるだろう。
そして間違いなく言えることは、B氏への相談は最良の打ち手ではなかったということだ。
B氏に相談するということは、例えるなら一般企業において「部長がヤバいということを課長に相談する」ようなものだ。
下っ端に相談したところでほとんど意味はない。「そうは言ってもね○○君、何事にも折り合いというものがあってだね、、、」という説得が始まるだけだ。
また実際、B氏に良く接していた一年生の部員から「B氏もヤバい」といった話を聞いていた。アラートは出ていたのである。
しかし、そのアラートを無視してしまった。時間的にも精神的にも追い詰められて正常な判断を下せなかった。
また部員全員の合意も取れていなかった。ミーティングを重ねたが、後に「僕はA氏がいいです」とB氏に相談しに行った一年生もいたという。
つまり、負けるべくして負けたのだ。
戦いは始まってすらいなかった。

これが僕がこの顧問追放運動で一応、最前線に立って学べたことだ。(父が保護者会の会長だったこともあり自分がリーダー的な役割を担っていた)
そして、自分が嫌いなことも分かった。
それは「うまく機能していないシステム」だ。
うまく機能していないシステムは関わった全員を不幸にする。
今回の件でいえば教員免許を取得するための学校教育、そして部活動の顧問制度というシステムに問題があった。
現在の日本では、まともなスポーツ教育学やスポーツ科学を学ばなくても部活動の顧問になれてしまう。
「スポーツ指導者としての専門教育を受けていない教員が顧問になる」ということが当たり前になっているのだ。
そして、A氏やB氏はそのシステムに内包された機能不全により、発露してしまった癌のようなものだ。
彼ら自身にも悪いところはたくさんあるし、彼らを擁護する気は一切ない。1ミクロンもない。
がしかし、恨むべきは個別の事象や個人ではなくシステムである。
個人を恨んでも全国に蔓延っているこの手の顧問たちを全員排除することはできない。ならどうするか、ゲートを設けることである。
例えば、顧問の資格制度や研修制度の充実化などである。
実際に欧州の「コーチの最低限コンピテンス指針」では、技術・戦術だけでなく「安全な環境の確保」「倫理・フェアプレー」「子どもの保護」がすべてのコーチに必要な能力として提示され、各国に資格制度・研修制度の整備がされている。
またポルトガルではスポーツコーチ法により、コーチとインストラクターの認定が必須で、無認定での活動は違法。スポーツ連盟・公的機関・政府の連携で研修機関も公認され、違反時は業務停止となるそうだ。
そして、この「うまく機能していないシステム」が嫌いという自分の性格は、その後の活動にも姿形を変えて現れた。
住んでいた大学寮で喫食受付システムが手書きからQRコードへと改悪されたときには、自ら簡易的なシステムを作って管理会社に営業を掛けた。
また、ITベンチャーでの長期インターン中に遭遇した組織課題に対しては、現状のレポートを書き上げ、経営陣に提出しその後の改善プロジェクトチームに参加し、経営の座組みの変更に尽力した。
これらのエピソードからわかるのは、高校時代の追放運動に失敗したという経験が、自分の中で強烈な原体験になっている、ということだ。そして、この性格は後天的に身についたというより、あの出来事を通じて輪郭がはっきりしたものなのだと、今では思っている。
自分の原動力は、「こうしたい」という前向きな理想よりも、「これはおかしい」「これは許せない」という違和感や怒りに近い感情にある。
そして、「自分ならもっとマシにできる」と思った瞬間、見て見ぬふりができなくなる。
この特性は、良くも悪くも抑えがきかない。
もちろん、この特性が常に正しく、報われるわけではない。
首を突っ込みすぎて疎まれることもあれば、余計なことをしたと後悔する場面もある。システムに問題があると気づいても、それを変えるだけの権限も、味方も、時間もないことの方が圧倒的に多い。
それでも、問題が見えてしまった以上、何もしないという選択肢を自分は取れないのだと思う。
振り返ってみれば、高校時代の追放運動も、勝ち目のない戦いだった。
ルールを理解しきれず、準備も足りず、仲間との合意形成も不十分だった。結果として失敗し、部を去ることになった。
しかし、あの失敗がなければ、システムを疑い、構造を考え、別の打ち手を探そうとする今の自分はなかった。
あのときは、ただの敗北だった。
今になってようやく、それが自分の思考の癖や行動原理を形づくる起点だったのだと理解できる。
「うまく機能していないシステム」が嫌いだというのは、言い換えれば、「人が無意味に傷つく構造」を見過ごせないということでもある。その性格は、面倒で、生きづらくて、ときに自分自身を消耗させる。
それでも、この性格と一緒に生きていくしかないし、きっとそれでいいのだと今では思っている。
ここまではだいぶ気分が悪いテキストになってしまったので、明るい話をしたい。
1つは、ドロップアウトした選手にも新たな選択肢があるということだ。
昨今ではそういった選手の受け皿になるクラブチームやアカデミーチームが存在している。
決してチーム数は多くないが部活動をやめた後でも競技を続けられる可能性が閉ざされないというのは朗報だろう。
もう1つは、素晴らしい顧問もいるという話だ。
それは下北沢成徳高等学校で48年間、バレー部監督をされていた小川良樹氏である。
「長時間練習」「体罰」といった学校スポーツの悪しき伝統からどこよりも早く脱し、小手先の技術でない真っ向勝負のオープンバレーで高校三冠を達成したこともある氏は、こう語っている。
スポーツの楽しさというのは、教えられたことができるとか、人に勝つというレベルじゃなくて。
自分を見つめて、自分の中で何かしらの考えを身につけて、なおかつ努力することによって“自分が変化する楽しさを知る”ってあたりに、スポーツの本当の楽しさがあるんだと思うんです。
引用:https://news.ntv.co.jp/category/culture/3ebad25707e742c48aa04f999dca309a?p=3
箸にも棒にも掛からない顧問もいれば、こういった顧問もいる。そして小川氏は退任後、他校のアドバイザーとして活躍されているそうだ。
(以下はアドバイザーをしている細田学園高校の密着動画。)
おわりに
ここまで振り返ってみて、僕はあの時、17歳の自分がした「退部」という決断を後悔していない。
チームメイトには悪いが、あの決断は間違っていなかったと今でも胸を張って言える。仮に続けていても遅かれ早かれ耐えられずに辞めていただろう。
しかし一つだけ後悔していることがある。
それは一時的ではあるが、野球を嫌いになってしまったことだ。
今でこそ、たまにはキャッチボールをしたいなと思うが、当時は二度と野球なんてやるものかと思ってしまっていた。できればこういう思いはしたくなかった。
締めくくりに入ろう。
学生スポーツというのは難しい。そして期間は短い。
競技である以上、勝利を求めるのは当たり前で、また勝利を一番求めているのも生徒である。一方で多くの学生競技者はプロになれるわけではない。誤解を恐れずに言えば、学生のほとんどはアマチュアで終わる。
そして、勝とうが負けようが学生の人生はその先も続いていく。
スポーツを通じて健全な肉体と精神を育み、試行錯誤を重ねながら自らの頭で考え、実践することができたなら、これ以上幸せなことはないだろう。
そこで培われた力は、競技の枠を超え、必ず人生のさまざまな場面で応用が利く。
本来、学生スポーツとはそうした力を育てるための場であるはずだ。
だからこそ、日本の学生スポーツから、いじめや体罰、理不尽なシゴキといった悪しき慣習がなくなり、すべての学生が安心して、健全にスポーツと向き合える環境が整備されることを、心から願ってやまない。
P.S. 帰省時 高校時代の最寄駅にて 毎朝自転車で朝練に向かっていた道
