「推し」は盲目

mirai
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※以下の内容はあくまで現時点の考えであり、これを公開した1分後には違うものになっているかもしれない。そんな前提でお読みください※

「セクシー田中さん」の実写化を含む一連の騒動に際して、様々なクリエイターを巻き込んで色々な意見が出ている。

まず大前提として作者を追い込んでしまった要因は第三者委員会を立てるなど、それを元に徹底的に調査し、二度と起こらないように再発防止に務めるべきだと思う。また、本件に関して「誰が悪いか」という断罪をする権利は関係者ではない我々には1mmもないと思っている。

だからこそ、ここでは少し別の切り口で話していこうと思う。

ここ数年で急激に市民権を得た言葉として「推し」がある。この言葉は好きなキャラやアニメを好きでいて、その作品を見たり、グッズなどを集めたりすることを指しているが、特徴として該当する作者の関連作やその作者が影響を受けたアニメ作品まで深ぼって波及する「オタク」的な思考に対して、この「推し」的な思考は単にその作品単体を好きなだけでも成立し、対象への愛が強ければ(推し文脈の言葉なら「尊ければ」)語れる、そんなゆるさがあるように思う。

だからこそ、オタクを名乗るようなハードルの高さはなく、気軽に誰でも「〇〇推し」のように使えたのだろう。

ただ、この誰かを「推す」ということの危険性を今一度考えた方がいいような気がする。

「誰かを好きである」と表明することは「それ以外をそこまで好きではない」ということを伝えることと同じだ。別に推し活自体は何も悪くないが、その無邪気さゆえに傷つけてしまう人がいることは意識するべきだなと思う。

かといって、特に自分の意思がなく流行だけを追うような人も軽薄だなぁと思うので、バランスは難しい。そんな結論のない話。