BBQで肉を焼く役回りに甘んじる

mirai
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BBQにいくと、大抵気がつくと肉を焼く役回りをやっている。別に料理が好きなわけでもないし、得意なわけでもない。どこからがミディアムでどこからがレアか、なんてことさえもわからない。

ただ、気がつくと肉を焼いている。そして、しばらくするとそんな僕に誰かが気づいて、「食べてなくないですか?変わりましょうか?」と言ってくる。

そう言われて素直に変わらないのは、それはそれで変なので素直にトングを手放す。肉を食べる。そして、また気がつくと肉を焼いている。

簡単に言えば楽なのだ。「肉を焼く人」という役回りになった方が誰と話すかや、自分が周りから浮いているかもしれないということを気にしなくていいから、かなり楽なのだ。

だからこそ、トングを気がつくと握っている。しかし、そんな思いもつゆ知らず、「変わりましょうか?」の一言がやってくる。もちろんその人は優しさからだし、そう思ってもらえてとても嬉しいが、トングという命綱を離した瞬間、大海に投げ出された気分で途端に息苦しくなる。

先日完結した宮藤官九郎のドラマ「不適切にもほどがある」の最終話、昭和的な価値観と令和的な価値観、色々あるけれども寛容になりましょうーという歌で締め括られる。

もちろん寛容になることは大切だが、BBQの場合はどうか。寛容になるということは、つまりひたすら肉を焼き続ける僕のような人を許容するということだが、そんなことは無理な話だ。何故なら、世の中にそんな思考で肉を焼いているなんて思ってもみないからなのだ。

「寛容になろう」というワードが本当に機能するのは価値観が対立した時のみであり、実は本当に根深いのは対立すらしない、まだ見えない誰かの価値観を知らずに踏みにじってしまうことではないだろうか。

想像力の問題と言って仕舞えばそれまでだが、世の中にはほぼ無限とも言える考え方や思考があり、その想像力すべてを補うことは難しい。だからこそ、僕らできる限りの想像をしつつ、なるべく物事を観察することが大切ではないかなと思う。

まぁそもそもBBQに行かなければ済む話かも知れないけども。