ある程度大人になってふと気がつくと、いろんなことをあきらめて見るようになっていた。それが具体的にいつからで、みたいなことは全く覚えてないし、もしかするとそんなきっかけすらなく、緩やかにそうなったのかもしれない。
この映画はそんな無意識に抱いていた「あきらめ」を肯定してくれた気がした。
PMSを抱える藤沢さんとパニック障害に悩む山添さんが働く職場は、そんな彼ら彼女らが抱える病を受け入れてくれる理解のあるやさしい環境だ。そしてそんな環境は彼らに対してだけでなく、他の同僚が抱える親族の自死や子育て、介護など現代社会にある様々な問題にもやさしく接してくれる。
ただ、そんなやさしい世界にありつつも、映画を観ているなかでずっと違和感があった。作品の冒頭に描かれるような普通の企業に比べると、どこか寂しげな雰囲気がずっとこびりついている感覚があるのだ。
物語後半、藤沢さんが親の介護のためにそんなやさしい職場をサラッと辞める。同僚や上司ににそれを打ち明けてもサラッと受け入れられる。もちろん物語では描かれていない盛大な送別会はあったかも知れないが、よく日本のドラマにあるような涙涙のお別れなんでものは1mmも描かれない。
人によっては冷たいと感じるかもしれないそんな一連の流れを見て初めて、この職場に感じていた寂しげな雰囲気は、世の中に対するあきらめなのだと感じた。
それは恋愛に対してもそうだ。恋愛に奥手な人のことを草食系という言葉があったが、この映画を見ると世の中で言われる草食系というのは、本当は異性と付き合いたいけど声をかけたり告白したりすることができない、という人ではなく、人とのつながりをあきらめているからこそ特別な感情を抱くことをそもそも前提としない態度なのではと思わされる。だからこそ、本作では冒頭に描かれる山添さんの彼女をやや重い人という風に捉えてしまうのだろう。
こんなことを言うと、「諦めずに歯を食いしばってなんとか現状を覆すべきだ」ということを、特に上の世代の人は思うかも知れない。ただ、その覆した後に訪れてほしいと願う世界のイメージのベースが、過去の世界のものでできていることであることに彼らは気がついていないのだろう。つまり、過去の世界に戻るための努力をしようと、熱心に言われているのと同じなのだ。
だからこそ、過去の世界ではなく、現実を受け入れて、そして諦める。その姿勢こそが今の世の中で最もポジティブな生き方で、そして人口が減り、老人が増え、そして自分たちも老人になるこの世界でできるやさしい生き方なんじゃないかなと思う。