初めて会う人と出かけるとき、自分はどういう方法で人間関係を作ろうとしているかが詳らかにされる。ご飯を食べるときや店を出て銭湯へ向かうときの私はそんなこと考えもせず、いつもどおりの自分でいながらお喋りを続けた。
銭湯のつぼ湯に浸かりながらその人は「(あなたは)昔付き合っていた人に似ている。話に伝わるかわからないネタを入れながらしゃべるところとか」と言った。(それってもう告白じゃん)と言葉を脳の中にとどめながら「その元カレ(とわたし)、絶対に友達になれるね」と伝えた。今日会った人は私が好きなタイプからは少し外れるのだけど一緒にいて居心地の良い人だったし、なにより横顔が良かった。
話を戻す。空間を埋めるためのとりとめのない話を延々続けた先には「結局のところその人を見ていない」という事実と向き合わないといけないタイミングが来る。それを感じ取ったのが今日。世の人々はそれが訪れる前にセックスをしたり、無言の時間を味わったり、お互いにとって影響があった個人的な出来事を語り合ったりしている(と思っている)。
アメリカではFillerと呼ばれる取り立てて意味をなさない空中に浮かんだ言葉だけで会話をする若人が増えていると聞いたけど、それで疎通ができるのなら私だってそうしたい。「Totally」「Oh…You know」「Yeah Totally」ですべての疎通を曖昧にしたまま”わたしとあなたは敵ではない”と浴びせ合う時間は気持ちが良いだろうな。
通常(いやな言葉だな)、私しかしらないという側面、私たちだけに横たわったミームの2つの柱を高くしていくことでお互いを信頼し合う関係がビルドされていくのだろう。残念ながら私はそこまで持っていけた経験がない。”私達だけに横たわったミーム”に関してはいくらでも作ってきたが、結局の所それだけでは関係性が成り立たなかった。代わりにセックスが出来たら良かったのだけど、それも実のところあまりうまく行かない。ままならないことだらけだよ、人生は。
代わりの方法を見つけなければいけない。おもろ開陳スタンダップコメディのジュークボックスマシンに走らずとも人間関係を築き上げる方法を見つけるためには何をしたらいいのか。私は他人に何を求めているのか。他人は私に何を求めているのか。ままならないねえ。いやぁままならない。ままならない。