何をしている・何をしたという報告ばかりになってしまう。どこに何をかいてもだいたいそうなる。
最近の私はというと、aikoの二人という曲をたくさん聞いている。この曲はゆっきゅん(DIVA・作詞家・文筆家)がインスタライブで歌っていたのをきっかけに知った。心許せる人がaikoを歌うと、それだけで良いものみた気分になる。ゆっきゅんの歌いっぷりが気持ちよくて、平日の勤務後カラオケをしに行った。ドリンクバーで店員がなにかしらの作業をしていたので、プラスチックのコップに氷だけを入れた。明らかに非常階段だろという様相を呈する外階段を使い、割り当てられた部屋へ向かった。そのフロアに客は私だけだった。これは気持ちよく歌えるぞ!と高揚したが、マイクの電源をいれることなく歌い終えた。誰かに聴かせるためのものでもない。マイクは手持ち無沙汰になる腕のために使ったけど、結局のところ何も持たずに歌うほうが気持ちがいい。カラオケルームが湛えている暗黙の前提を無視しているという征服欲もあるのかもしれない。
それにしても、aikoは諦念や気持ちの届かなさを描くのがうまい。四半世紀歌っているだけあって音の運びと言葉の響きのピークがバチッとハマる瞬間が要所要所にある。この曲を聞きながら帰るときに必ず流れる涙(寒暖差とドライアイのせいで左目から絶え間なく流れ続けてしまう)は本当は一体なに由来の涙なのかと考えてしまう。
歌詞の内容は自己憐憫と何にも結びつかないであろう逡巡に傾いているところが気になるが、「同じようにあなたを見た」の一文ですべてをクリアしている。言葉を介在させず行動をシンプルに書く手腕よ。aikoはこういうところがすごい。まったく同じ行動を取っているのに意味がまるきり違うの、オタクが一番好きなやつでしょ。私も大好き。