フラッシュバックが辛く起き上がれなくて、外にも出れない時期があった。嫌がらせしてきた相手から逃げて無理やり引っ越したけど、また特定されるんじゃ無いかと思った。後をつけられ手紙を投函させられても何の罰則もないなんてあんまりじゃ無いかと思いながら。
被害にあってまもなくコロナ禍となった。さらに外に出なくなった。でもほっとした。加害者たちも出ないはずだから。外歩いても胸を触ったりニヤニヤ笑いながらナンパされることも少なくなるはずだから。
フラッシュバックが頻発してるような状態だと、ぼうっとしていることすら不安要素だった。いきなりバチっと入り込んでくるのである。あの悍ましい記憶が。
そんなときゲームが心の拠り所だった。あえて依存させてた気もする。依存の方がフラッシュバックよりマシだった。ゲームを本格的にやるのは初めてだった。敵が襲いかかるのは本気で恐怖を感じた。でもゲームの中で私は何度も蘇った。何度も戦って強くなっていった。美しいハイラルの地を駆ける時、心は自由なのだと感じて涙が出た。あの瞬間、確かに、わたしは救われていたのだ。
ハイラルの勇者となった私は、ウィッチャーとして蘇った。中世ヨーロッパのような荒廃した救いようの無い世界で目の前の人々を助けていった。それぞれの信念に胸がすく思いがした。死してなお続く怨念と人間の愚かさは現実の再演で、辛いけど心がスッキリしていくのも感じた。
スカイリムではドラゴンボーンになった。今、また目の前に救うべき人々がいる。合わない価値観でもずっといたら好きになってしまう人や場所ができる。北国の暗いグレーの空。そのなかであらわれるオーロラの輝く美しい空。廃墟の美しさが最高で、インディアナジョーンズになったようだった。
オープンワールドのゲームは自分で選択しなければならない。それが病気のわたしには辛くて、でも嬉しかった。現実でできないことがゲームの中ではできた。誰よりも自由に生きれた。
作品に生かされること。
ゲームもそうなんだと気づけた。