関わりのない他人のことは無視するべきか?
選挙には行くべきだ、というのが洗練された大人の条件の一つのようである。
しかし、それがなぜ良いとされているのか、というところはいまいちわからない。たかが一票が、なぜされど一票と言えるのか。
有名人が「投票に行こう」と呼びかけることは、その言葉が広まる人数を考えれば効果がある。しかし、個人はどう頑張っても個人であり、たかが一票でしかない。
効果を考えるならば、周りの人に政治の議論は日ごろしたほうが良いように思うが、一方で、それを避けるのもまた洗練された大人として要求されているようにも思う。
スポーツ選手が未成年で飲酒や喫煙をして、それで何らかの出場権限を奪われたとき、それについて外部の人間が何かを述べるのは、意味があるのだろうか。
というより、そういうことにいちいち首を突っ込むのは気持ちの悪い行為だな、という気がしている。気持ちが悪いのは感情なので仕方がないが、では、首を突っ込むのはなにか理屈として適切なのか(あるいは、首を突っ込まないようにすべき、という理屈があるだろうか)
報道などで犯人に対する心境を追うというのも似た行為だ。
どちらも、他人に対して自分と同じ気持ち(価値判断?)を持っていて欲しい、という欲求の現れだろう。
なんで同じ気持ちを持ちたいのだろう。そのほうが、敵を作らないということだろうか。社会的動物で、本能的にそういう欲求があるのだろうか。
経済が食欲を満たして価値を接種するように、SNSで社会的欲求、同調欲求を満たすことで、そこから広告経由での利益を得る、ということが進んでしまっているのだろうか。
「同調を望みすぎなのは良くない」という自分の気持ちを、他人にも求めてしまっているから、まだ私も同じなのだろう。他人が同調を望むことについて、あまり感じすぎない、考えすぎないほうがいいだろう。
お腹がいっぱいだから、食べたくない。そのくらい自然なふるまいとして、他人の感情を観測しない。ということは構わないだろう。
スマホ断食、という言葉もまさにそういうことだろう。「スマホ断食」という単語自体が、「ソーシャルなシャットアウトはいいですよ」という気持ちを共有したい、という欲が出ている。
ただ、食事の断食をした後のご飯はおいしいので、定期的にやる、というのは理にかなっているのかもしれない。
日記冒頭の問題意識は、情報の遮断は、やりすぎたら、必要なときに困るのでは?といったニュアンスであった。
これに対する対策あるいは解答として、考える、というものがあるだろう。
投票は行くべきか行かないべきか、考えよう。未成年が飲酒や喫煙をして、それが正しいか間違っているのか、あるいはそれ以外なのか、考えよう。
こういうのは、色々考えてみるが、結局、どちらでもよい、という結論になる気がする。
投票は権利であり義務ではない。権利を行使すれば、1票を使えるというだけだ。たとえば、投票に行きました、と嘘をついたらどうだろう。あるいは投票先の嘘を付く、といったケースもありえる。
このとき、哲学的ゾンビとまでは大げさだが、結局、周囲の人の反応は変わらないだろう。芸能人などもそういう人がいるはずだ。投票所に行かずに、洗練された大人を演出できるからお得だろう。
未成年のスポーツ選手の飲酒や喫煙はどうだろう。法に触れるかどうかの話でしか無い。また、起訴しないのならば、結局周囲の人間との関わりの話でしか無い。スポーツ選手が関わる委員会などの規範やルールがあり、それに基づいて判断をされるし、また、その時の偉い人や親などの判断でも、処分は変わるだろう。
結局、周りの人間、関係者がどう思うのか、ということのパワーバランスに基づいた、感情という手札のゲームでしか無いのかもしれない。
そう考えれば、そもそもそのようなゲームに参加する必要がない、興味がないなら無視をすればいいし、ただ、普段から参加をしていたほうが、ゲームは得意になるかもしれない
今日は文章量に対して、あまり面白みのある話ではなかったな。感情の話はとらえどころが難しい。