納得と選択
極端な意見も、平凡な中庸も、自分で判断を行っていないという点で同じだ。要はバランス、といって話を終わらせる人も、自分で考えるのが手間だ、といって判断を放り投げてしまっている。
このように、結論や結果が同一であっても、その過程の判断が異なると、納得度合いが異なる。もしもその選択以後、新たな選択や行動が取れないなら意味はないかもしれないが、人生にそういうものは基本的にはない。常に、その後が続く。
その時に、事前に判断や思考を伴っていると、次の判断のための材料になる。
AIに話題を安易に頼るのはよくない VS どんどんAIを使って体を慣れさせよう、という意見が自分の中で対立している。
昨日までは、話題についてはあまりAIに頼っていなかった。そして、頑張って書き続けた結果、とりあえず文量は稼げている。
数回これを経験したら、逆に、AIを使うことへの抵抗感が減るな、となんとなく予感している。AIに頼らなくても書く力はちゃんとある、と思えるからだろうか。
受験勉強頑張って落ちたけど、頑張ったからスッキリしてる…みたいな?
しかし、それっていっときの気持ちによって、AI使って良い、使ったらよくない、という気持ちに流されているだけなように見える。
ではどうするべきか?
現状は、テーマや課題意識が足りていないと思っている。そういうものがあれば、「〜〜という点で、AIを使う価値、意義、はあるか」という提起ができる。
そして、それを検証する作業に入ればいい。
ということを、最近「イシューからはじめよ」を読んで思うようになった。
「日記を交えて思考を深める」というところから始めて、イシューを洗練させてみよう。
日記で思考は深まる?
部分的にYES。考える機会がないとどんどん衰える。筋肉のように
仕事などでも頭は使うが、部位が異なる、と思えばよろしい
どういう日記をかけば良い?
放置すれば衰えるのは正しいが、では何をどういうふうに書けばよいかの判断が無い。
まずは「視点」という視点があればよいだろう。
つまり、「何かについて書かなければいけないとき、何について書きたくなるのか?」ということを日々定点観測してる、という認識を持とう。
今すぐ最高の日記トレーニング、と思わなくていい。
ただ、毎日書くことを義務付けた時、何を書き出すのか?
極端な話、ここで突然プリキュアの話をすることはない。自分はまったく興味がないからだ
仕事や趣味から起点に考えるかもしれないし、それもよいだろう
現状の方向性
時事ネタを書かない。普遍的なものを書く
思考に関するものが多い気がする
ここは、感情についても書くといいかも
気になっている話題を挙げておくか
日記
思考
感情
幸せ
価値
判断
直近はこのくらいだろうか。
自己啓発じみてきたが、「自己啓発」という言葉がちょっと面白い。
[名](スル)《「論語」述而の「憤せざれば啓せず、悱(ひ)せざれば発せず」から》人が気づかずにいるところを教え示して、より高い認識・理解に導くこと。「彼の意見には―された」「自己―」
デジタル大辞泉
啓発という語は論語から気ているようだが、啓蒙、開発、といった意味合いがある。指導なども近い。偉い人が導き教えるようだ。英語だとenlighten, developmentのニュアンスに対応するだろうか。
自己を啓発するとはなんぞや。自分で自分を導くようだ。しかし、気づいている側が気づいていない側を導く意味合いを、自分自身でどうやって解決するのだろうか。
自分は気づいていないということには気づいている、という無知の知のようなことだろうか。孔子の教育思想に基づいた言葉とすると、そうではなさそうだが。
「啓蒙」と「啓発」の違い。「啓蒙」は「無知蒙昧な状態を啓いて教え導くこと」という意味であるのに対し、「啓発」は「知識や理解を深めること」という意味。蒙と発の違いがある。
自己啓蒙だと変だが、自己啓発なら変ではないのかもしれない。
自己啓発という言葉の一般的な使われいる文脈を探すと、自分の場合は本屋のコーナー、そしてそういう本を思い出す。自己啓発本だ。
子供の頃から、そういうものに関心はあると同時に、実のない話しか書かれていなくて、読む価値はなさそうだ、とすこし馬鹿にした、あるいは諦念がある。
この本屋における自己啓発本というコーナー、この概念あるいは仕組み自体は、結構な発明なのではないか。つまり、人間は自己を啓発したいと思っているが、自力では啓発しきれない(それができるなら困っていない)。そういう人に対して、学びが得られますよ、というコンテンツを提供する場、というデザインが行われているのだ。
論語など、なんらかの古典は、自己啓発本なのだろうか?本というものが、そもそも啓発のような側面があるだろうか?聖書なんか、まさに啓蒙活動だ。
今日は日記についてと自己啓発について考えた。2つは多いな。