2024/07/19(金) 日記についてと自己啓発について

miyamonz
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公開:2024/7/20

納得と選択

極端な意見も、平凡な中庸も、自分で判断を行っていないという点で同じだ。要はバランス、といって話を終わらせる人も、自分で考えるのが手間だ、といって判断を放り投げてしまっている。

このように、結論や結果が同一であっても、その過程の判断が異なると、納得度合いが異なる。もしもその選択以後、新たな選択や行動が取れないなら意味はないかもしれないが、人生にそういうものは基本的にはない。常に、その後が続く。

その時に、事前に判断や思考を伴っていると、次の判断のための材料になる。


AIに話題を安易に頼るのはよくない VS どんどんAIを使って体を慣れさせよう、という意見が自分の中で対立している。

昨日までは、話題についてはあまりAIに頼っていなかった。そして、頑張って書き続けた結果、とりあえず文量は稼げている。

数回これを経験したら、逆に、AIを使うことへの抵抗感が減るな、となんとなく予感している。AIに頼らなくても書く力はちゃんとある、と思えるからだろうか。

受験勉強頑張って落ちたけど、頑張ったからスッキリしてる…みたいな?

しかし、それっていっときの気持ちによって、AI使って良い、使ったらよくない、という気持ちに流されているだけなように見える。

ではどうするべきか?


現状は、テーマや課題意識が足りていないと思っている。そういうものがあれば、「〜〜という点で、AIを使う価値、意義、はあるか」という提起ができる。

そして、それを検証する作業に入ればいい。

ということを、最近「イシューからはじめよ」を読んで思うようになった。


「日記を交えて思考を深める」というところから始めて、イシューを洗練させてみよう。

日記で思考は深まる?

  • 部分的にYES。考える機会がないとどんどん衰える。筋肉のように

  • 仕事などでも頭は使うが、部位が異なる、と思えばよろしい

どういう日記をかけば良い?

  • 放置すれば衰えるのは正しいが、では何をどういうふうに書けばよいかの判断が無い。

  • まずは「視点」という視点があればよいだろう。

  • つまり、「何かについて書かなければいけないとき、何について書きたくなるのか?」ということを日々定点観測してる、という認識を持とう。

    • 今すぐ最高の日記トレーニング、と思わなくていい。

    • ただ、毎日書くことを義務付けた時、何を書き出すのか?

      • 極端な話、ここで突然プリキュアの話をすることはない。自分はまったく興味がないからだ

      • 仕事や趣味から起点に考えるかもしれないし、それもよいだろう

  • 現状の方向性

    • 時事ネタを書かない。普遍的なものを書く

    • 思考に関するものが多い気がする

      • ここは、感情についても書くといいかも

気になっている話題を挙げておくか

  • 日記

  • 思考

  • 感情

  • 幸せ

  • 価値

  • 判断

直近はこのくらいだろうか。


自己啓発じみてきたが、「自己啓発」という言葉がちょっと面白い。

[名](スル)《「論語」述而の「憤せざれば啓せず、悱(ひ)せざれば発せず」から》人が気づかずにいるところを教え示して、より高い認識・理解に導くこと。「彼の意見には―された」「自己―」

デジタル大辞泉

啓発という語は論語から気ているようだが、啓蒙、開発、といった意味合いがある。指導なども近い。偉い人が導き教えるようだ。英語だとenlighten, developmentのニュアンスに対応するだろうか。

自己を啓発するとはなんぞや。自分で自分を導くようだ。しかし、気づいている側が気づいていない側を導く意味合いを、自分自身でどうやって解決するのだろうか。

自分は気づいていないということには気づいている、という無知の知のようなことだろうか。孔子の教育思想に基づいた言葉とすると、そうではなさそうだが。

「啓蒙」と「啓発」の違い。「啓蒙」は「無知蒙昧な状態を啓いて教え導くこと」という意味であるのに対し、「啓発」は「知識や理解を深めること」という意味。蒙と発の違いがある。

自己啓蒙だと変だが、自己啓発なら変ではないのかもしれない。


自己啓発という言葉の一般的な使われいる文脈を探すと、自分の場合は本屋のコーナー、そしてそういう本を思い出す。自己啓発本だ。

子供の頃から、そういうものに関心はあると同時に、実のない話しか書かれていなくて、読む価値はなさそうだ、とすこし馬鹿にした、あるいは諦念がある。

この本屋における自己啓発本というコーナー、この概念あるいは仕組み自体は、結構な発明なのではないか。つまり、人間は自己を啓発したいと思っているが、自力では啓発しきれない(それができるなら困っていない)。そういう人に対して、学びが得られますよ、というコンテンツを提供する場、というデザインが行われているのだ。

論語など、なんらかの古典は、自己啓発本なのだろうか?本というものが、そもそも啓発のような側面があるだろうか?聖書なんか、まさに啓蒙活動だ。


今日は日記についてと自己啓発について考えた。2つは多いな。