ランニング中のお供としてランニングの話を聴いてみるのもいいなと思い、村上春樹の自伝的エッセイである本書をaudibleで聴いてみた
村上春樹の小説は昔好んでよく読んでたけど、作者本人の生活については特によく知らなかった
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村上春樹が走るようになったのは1982年、33歳の頃。初期三部作の「羊をめぐる冒険」が出たあたり。本書が書かれたのが2007年なのでそこから50代後半まで25年くらい継続して行ってきたランニングや執筆活動の話が語られる
内容としてはまあ意外とそんなに驚くようなことは無いというか、ランニングしてると実感としてそうだよねと自然に感じることが多かった印象がある
チーム競技ではなく(市民ランナーなら基本的に)対戦相手がいるわけでもない、ただ自分一人で走るランニング。それは作家のような自由業にとっては生活に随伴するものとして必然的にちょうどいい関わりに感じられる
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特筆すべきは毎日10km、月間で300kmをコンスタントに走っていたということ。これは市民ランナーとしてはかなり多いほうだと思う
そしてフルマラソンは20回以上走っていてタイムは3時間半とのことでこれも普通よりは速い。ただ、月間300kmも走ってたら今ならサブ3(3時間切り)が狙えるレベルだよなーって感じた
これは今の時代のほうがよりトレーニング方法が確立されていることや、GPS付きのスマートウォッチでペース・心拍数・ピッチ・ストライドなど自分の状態を走行中に確認してコントロールしやすかったり、2016年頃からは厚底ランニングシューズが主流になって靴の力で走れるようになったというのがありそうだなと思う
カヤック社のエンジニアの方がサブ3達成したときのことをいろいろ書いてるけど、「毎月300km以上を走り、今やっているスピード練習も継続すればサブスリーは可能」という感じだった
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40代になってからはフルマラソンのタイムが落ち始め、趣向を変えて100kmのウルトラマラソンに参加した話も語られる
100km走り通すということだけで既に一本の作品になりそうなエピソード感だけど、特に走り終えてから初めて自覚されたなにかしらの決定的な心境の変化というのが興味深かった
──ある種の精神的虚脱感、走ることに対して単純に前向きな気持ちが持てなくなった。なぜかは分からない。しかしそれは打ち消し難い事実だった。何かが失われたのと同時に、新たな何かが生じた
まさに村上春樹の小説っぽい
それが走ることに飽いてきたのか、肉体的なピークを過ぎたのか、更年期的なものなのか、さまざまなものが混じり合ってそれを「えたいの知れないネガティブなカクテル」と呼称していたのが印象的だった。梶井の「えたいの知れない不吉な塊」みたい
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そしてトライアスロンをやるようになりロードバイクの練習中に鉄柱にぶつかって放り出されたという話を聞いて、自分も落車して骨折した身としてはあんな速い乗り物危険すぎる、世界的な作家先生がそんなことしないでくださいよ…と思ってしまった(リカンベントで事故って亡くなってしまった小路啓之という漫画家さんも居る…)
でも逆に作家だからこそフィジカルをリスクに曝して日常性を逸脱するのも原動力なのかなって思った