「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読んだ

miyaoka
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  • なんかちらほらと話題になってたやつ。audibleでも配信されてた

  • まあ~そりゃ~~~読まないよな、本。って思ったので読んだ

  • 現代的な話だと思ってたけど、明治期から遡って人々の本との付き合い方を各時代のベストセラーなどを引用しながら歴史的に辿っていく構成だったのでちょっと意外だった(audibleで聴いてるので分からなかったが、目次を見れば各章ごとに各時代を扱う構成なのは一目瞭然だった)


  • で、ざっくり言うと明治期以降に階級の流動性が高まった社会では実力による立身出世の意識が高まり(ちなみには立身(儒学)は武士が使い、出世(仏教)は町人が使う言葉らしい)、そこで本を読むような修養が求められた

  • 読書は上流階級の教養であり、庶民にとっては本を読むことがエリート層に追いつく手段であった

  • やがて大衆化していき一般化すると、サラリーマン社会での実用書や娯楽という位置づけになっていく

  • そしてバブル期以降には従来の出世主義は難しくなり、対社会ではなく自己の内面意識の変革へと向かうようになった


  • で、現代では自分の関心のある情報のみが求められ、そうでないものはノイズとなる。働き方的にノイズを受け止める余裕がない

  • 本のような新しい知識は書かれていることが未知数でノイズが多い。継続的にプレイしているスマホゲーのように分かりきった娯楽や、自己啓発書、ファスト教養などが求められる

  • 近年の芥川賞受賞作である「コンビニ人間」や「推し、燃ゆ」では従来生活の一部であった労働や趣味に人生そのものの実存をかけるようになったライフスタイルの物語を描いている。自分の文脈以外を受け入れることができない

  • じゃあどうすればいいかっていうと、仕事のように一つの文脈に全力でコミットメントするという意識をやめませんか、という提言。そして自分と関係のないノイズに触れることが他者や社会に触れる教養であると


  • 新しい知識がノイズになる、という話ではオモコロニュースウォッチで「なぜいいねをするのか?」という問いに対しての恐山さんの回答が興味深かった

  • 「対戦ゲームで負けたら壁を殴るように、いいね!ってフラストレーションをいいねボタンを殴ることで収めてる。いいって思うことは一種の心の負荷である」

  • いいねはストレス、心に負荷をかけるものとして言語化しているのがさすが作家先生だと思った


  • 情報とノイズについては日頃とても意識する

  • しかしSNSはノイズが多いのにも関わらずついつい見てしまう。なぜか?

  • 一つには行為として摂取が楽であること。そしてもう一つには射幸性が生む依存性があると思う

  • 多くのノイズの中からときどき価値ある情報を発見するということが期待できるものであり、そこが砂金採りのような射幸性を生んでしまっているんだろうなと思う

  • しかしこれはめちゃくちゃコスパが悪い。悪い上に副作用としてSNSにあふれる多くの他者が抱えている怒りを摂取してしまう

  • そうしたノイズを食らうことも自分の関心に無い他者に触れることであるから大事なのではないか、という気持ちもあったけど、やっぱこれは良くないんじゃないか!とも感じる


  • かつて「ノルウェイの森」を読んだとき、登場人物の永沢さんの名言がとても心に残った

「死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしない。 そういう本しか俺は信用しない。 現代文学を信用しないというわけじゃないよ。 ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短い」

  • 80年代でもタイパ追求意識が高い!

  • 時の洗礼を経て評価が定まっているものを読む。これはハズレがない。とてもいい。しかし死後30年って、マンガだったら藤子Fもまだ読めない。当時は良かったかもだけど、めまぐるしい現代では新しい情報に触れられない不安もある

  • これが映画だったらシネコンで面白いかどうか分からない新作を観るよりも、都内にいくつかある名画座で映画好きスタッフによってセレクトされた旧作2本立てを観るほうがハズレなく教養としての映画に触れられると思う

  • かつて無職だったときに時間があったので、そうした名画座に毎日のように通って古今東西の時代や国の違う映画を何百本も前知識無く片っぱしから観るようにしていた

  • しかし多くの作品は自分の関心事ではないし、その時代のその国の文化コンテキストを理解していないと難しい。理解できた割合は低く、パフォーマンスとしては良くないだろう

  • でもこれは卵が先か鶏が先かみたいなもので、知識を得てから観るのも時間がかかるわけだから、一通り古典を観た上でそのうち詳細を知ったときに、あーあれがそういう経緯でこの作品にも通じているんだ、と理解が深まれば投資に見合うのではないかなと思う


  • 映画を観ようと思ったモチベーションには当時youtubeが台頭してきたこともあった

  • 10分程度の動画で楽しめるようになった時代で、じゃあ映画は2時間も何をやっているのか、というのは理解しないといけないような気がした

  • 長い映画としては7時間以上もあるタル・ベーラ監督の「サタンタンゴ」が以前イメージフォーラムで上映されちょっと話題を博していた

  • ↑観た人には分かる「サタンタンゴ」レポ漫画。タル・ベーラ的な長回し演出

  • これは結局3部に分けての上映だったので、映画3本立てと考えればまあオールナイトでよくある構成だし、ロード・オブ・ザ・リング3部作一気見上映会のほうが12時間くらいあって長い

  • ただノイズに時間を掛けられない社会と言っても、こうした良く分からんクソ長い上映会でも満席になる盛り上がりも一方ではあるし、希望じゃないかと思った

  • このへんは一時期盛り下がった映画産業が他者と共有する体験性という軸で改めて価値を生むようになったのに比べ、本というものは個人的・内面的に閉じすぎているままなのではないかとも思う


  • 労働と読書というものの歴史的な意味合いの変遷について辿るのは面白かったけど、やっぱタイトルの問いかけに対する直接的な回答としてはそぐわない気はする(タイトルが悪い)

  • なのでまあ、結局メディア・情報の多様化や分散が要因なんじゃないの~~~??みたいなところはある(自分は逆にaudibleという形態になったことで読書できるようになったのもある)

  • 通勤電車で多くの人が読書くらいしかすることなかったのがガラッとスマホに変わったように、本というメディアは優先度低くなったことでたとえ働いてなくても読まないだろなーって思う