audibleで聴いた
audibleで読書したときに「聴いた」と書くべきか「読んだ」と書くべきかいつも迷うんだけど、この本の白鳥さんが言うには全盲の人でもテレビは「見た」と言うよって話してた
最近恐山さんが日記でこの本を読んだと書いてたので、へえそういう本があるんだと興味を持って読んだ
Audibleで『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』を聴いている。全盲の白鳥建二さんと美術館などに行き、晴眼者が美術品を口頭で説明することによって互いの解釈が深まっていく。書籍には参照される図版が多数載っているが、音声で聴いているだけだとわからない。なので文中で鑑賞している作品について、奇しくも白鳥さんと似たような立場で説明を受けることになる。音声を聴いてから図版のデータを見たら、説明で想像していたものと全然違っててびっくりした。
まさにここで言われているように音声によって絵を説明されるaudible版の体験は白鳥さんの立場に近く、興味深い
もちろん絵自体は見えないのだけれど、それを誰かが解説するということを楽しむことができるし、説明する側も伝えるための言葉にすることでさまざまな気付きが生まれてくる
特に美術鑑賞なんてその場で声に出してみないと実はよく分かってないということも多いはず。そもそも細部までしっかり見るということができてない。全盲者に伝えるために視覚機能という役割になることで初めていろんなことが見えてくる
そこでは絵の解釈の正しさが問われているのではないのでいわゆる音声ガイダンスとは違うし白鳥さんもそれは好まない。絵や人を媒介にして話をすることがなにか価値を生んでいる
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白石さんの話はどれも面白い。そういう見方もあるのかとこちらが期待する答えを上回ってくる。上回ると言うかおそらく晴眼者が想像する決めつけがあることで、そういう答えを返すことに飽いてるところはあるんじゃないかなとは思う
たとえば記憶について、過去の記憶っていうのは常に上書きされるとも語っていた
視覚に依存していると写真などを見て過去はこうだったなーと思い出すけど、それもそもそも見えていなければ常に揺れ動いていて現在も過去もたった今思ったことにすぎないのかもしれない
https://bsky.app/profile/shinadayu.bsky.social/post/3klssv7x2xl2o
この前読んだ本に「全盲の友人に『遠いものは小さい』と教えたら驚かれた」という話があってなるほどと思った。距離と大きさの関係は視覚依存の副次的なものだと気づいてなかった。
こういう話もなるほど~~~って思う
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本の構成としては白石さんが語る話が3割、アートについての話が4割、著者のプライベートや仲間内の話が3割という感じで、白石さんの話を期待しているのに気づいたら著者の自分語りが続いたりするのは正直そんなに好きじゃないな~~と感じてしまった
もちろんアートや白石さんと対峙するうえで自分自身というものも自覚して語られなければいけないんだろうけど、海外生活が長い人による出羽守っぽい価値観などを聞かされるとどうにも心がギシギシとざわついてしまう。もちろんそれは自分の偏見なんだけど
とはいえ白石さんの言葉というのも含めてあくまで著者が書いているものだし、白石さんはそんなこと喋ってないかもしれないし、白石さんはそもそも存在していないかもしれない。だから結局全ては著者の自分語りであり、著者の語る話に感心しているんだなと思った