適応障害になってから立ち直るまで

miyashiba
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思えば2023年は冬の年だった。

初めての転職は、1年と経たずに精神疾患を抱える結果となり、結果だけ見れば失敗に終わったと言える。

もう一度元気になれたのは、ほとんど奇跡みたいなもので、でもそれを手繰り寄せたのは家族や友人知人、主治医の先生といった周りの助けと、自分の努力だと信じたい。

人生にこんな出来事があって良かったとは言えない。無い方が良かったに決まってる。

でも、こんな出来事から見えたものだってあると、それはそれで思いたいので、風化しきらないうちに振り返ろう。

2023年、春

3月。新卒で入った会社を離れようと決めてから、思っていたよりも長引いた転職活動の末に決めた転職先の会社に移った。

人の直感というのは結局当たるのか、入社2日経った日の日記には「どこか前職が恋しい自分がいる。」と書いてある。

自分で求めた環境と下した決断だし、新しい環境に対して不安を感じるのは当然のことだ。

そうやって押し殺して、もっと前に進まないといけないと言い聞かせていた自分を思い出す。

2023年、夏

6月頃から覚えたことのない不安を感じるようになった。

心はざわつき続け、目の前のことに取り組めなかったり、次のことを考えてもそちらに向かわなかったり。

身体は起きなかったり、寝なかったり、食べなかったり。

自他共に認めるオタクなのに、好きなコンテンツの動きにワクワクしなくなったり。

初めて市販の睡眠薬を試した。

上長に心身の不調を相談し、並行して初めて心療内科を受診した。

どちらも新しい環境に対して緊張が続いているのだろう。周りから見れば順調にやっているのだからもっと力を抜いて良い。と言われたし、自分でもそう思っていた。

仕事自体はすこぶる順調だった。

治療的な処置はしなかったが、Youtubeでセントジョーンズワートが良いと聞き、週に2, 3回ほど頼るようになった。

以降少し収まって、夏は乗り越えることができた。

2023年、秋

10月。会社で大きな組織改変があり、自分は異動になった。かなり大胆かつ唐突な意思決定。

入社から一緒に働いていたチームはだいぶ仕上がっていて、メンバーで上手くコミュニケーションを取りながら一丸で回している実感があったので、正直かなり残念だった。

でもこういうチャレンジが頻繁に与えられる環境を望んだのは自分である。

やってやるしかない以外の思考は生まれ得なかった。

異動後はこれまでやったことのない類の業務をほぼ独力で進めることになった。

どうやらこれはだいぶ致命傷だったらしい。

進まない自分の仕事と、進み続ける周りのチームの差に焦りや不安を覚え続けた。

夏頃からSNSではほとんど発言しなくなっていたが、友人に限定したアカウントでもネガティブな発言ばかりが増えていた。

セントジョーンズワートは常飲剤と化し、休日はほとんど全てを寝て過ごす毎日になっていた。

いま書き起こすと明らかに異変状態としか読めないが、当時の本人は確かに不調な気はするがまだ行ける、耐えれると思ってたから不思議なものだ。


そんな折の11月末、友人に誘われてとても素敵な日帰りの旅行に出た。

初めての土地に車で行き、美味しいものを食べ、人生で1番綺麗な星空を見た。

こんな事は人生でそう何度も無い。自信を持ってそう思える良い日だった。

東京に戻りながら、自分の現実と今日の素晴らしさを対比して何かを間違えてると思った。

3日間だけ耐えて、ついに決壊した。

2023年、冬

治療期間のことは正直記憶がハッキリしない。

診断書を出してもらって会社は休職になった。

休めるという安堵と、休んだ先でどうなるのかの不安がいた。

実家との接点が盆暮正月しかないひとり暮らしの長男だが、さすがに親に連絡を取った。

長くなるので割愛するが、相変わらず出来た親だなと感じた。

本当に偶然、休み始めたその週末に小学校時代の同級生と卒業以来に遊ぶ予定があり、そこだけは元気だった。

乗り越えたというよりは、元気を貰ったが正しい。

隠し通すつもりだった自分の近況を打ち明け、励ましてもらえた事実は感謝の念に有り余る。


その後は糸が切れたかのように何もしなくなった。

ほとんどの時間を寝て過ごし、起きた隙間に食事を摂って、何をするでもなく外を少し散歩してみるだけの日々だった。

もっと何かするものだと思っていたが、本当に何もしていなかった。

「抑鬱状態の人間は脳がエンストしている」というのは言い得て妙だなと思う。

感じたり考えたりする働きが正しく起きず、故に最低限の生命活動しかやらない。

つまり腹が減ったら飯を食って、眠くなったら寝るだけだ。

なんなら眠くなる機能も故障してるので薬の力で寝ていたわけだが。

散歩はイヤホンが必須の人間なのに、音楽を聞いても脳味噌の表面で上滑りして入ってくる感じがしなかったのを覚えている。

やっぱり感じる力がインプットもアウトプットも取れなくなってるんだなと思っていた。

歩いて行ける近所の飛行場で飛行機を眺めて2時間過ごしたりしていた。

幸いなことに希死念慮なんかは無く、1ヶ月ほどで気力は回復傾向に出てくれた。

薬の力に頼らず就寝できる回数が増え、音に色が戻った。

明日はこれをしようが生まれて、その数が増えていった。

2024年、年明け

年末年始の帰省から東京に戻って、回復傾向とはいえ焦って社会に戻っても良い事が無さそうに思えたので、2月末までは好きにしようと決めた。

休職期間もちょうど2月末で切れる予定だったが、正直同じ会社に戻るつもりは無かった。

ひと通り楽しみたい事を楽しみながら、1月末から社会復帰に向けた転職活動を始めた。

ここで、資本主義労働社会では精神疾患とは単純な治療の辛さと、健常化して社会に戻りたくても戻れない辛さの2段構えであると知った。

正直悪い経歴はしてないし、能力面でも平均より上には居るつもりなのだが、エージェントを通しても面白いくらいに取り合ってくれなかった。

採用目線で既往歴のある者を採るのがリスクというのは理解できるが、その壁は想像以上に高かった。

そんなこともあり、薄ら考え続けていた新卒で入った会社への出戻りというのを真剣に検討し始めた。

本当に恵まれたことに、連絡を取った後は現場の同僚も人事も経営層も歓迎していただき、面接を経てアルムナイ採用と相成った。

2024年、春

出戻った。

自分にとっては長い1年だったが、周りからすればそうでもないらしく、

おかえりとか、久しぶりとか、家出扱いをされた。

何を感じたのか4月1日、帰宅してからひとり号泣した。

休み始めた時もそんな事はなかったので、逆に言えばようやく泣けたのかもしれない。

ちゃんと持ち直せたことが、そこに向けて頑張れて、周りも受け入れてくれたことが嬉しかったんだと思う。

もちろん、一度出て行ったのにはそれなりの理由がある。

以前は自分の居場所を変えるという方法を取ったが、今回はまた別のアプローチを取らないといけない。

それはそれで次の挑戦になるだろう。

思い起こして

直接の原因は仕事の配置や内容だったかもしれないが、

結局、最も悪かったのは自分の人生全体に対する態度や、思考のクセみたいな部分だったのだろうと思う。

というか、建設的に考えるのであれば自分を変えるのが1番早いので、改善点を探すには自責にしてしまった方が良い。

早く一角のキャリアを築きたいんだと、1人で焦りすぎていたこと。

上京を叶えた後、どうしたいのか分かっていなかったこと。

(自分にとって、東京に行くことは上京と郷愁がセットになった複雑な夢だったことはまた別の話。)

東京で仕事を頑張るのは、アドラー心理学が言うところの「人生の嘘」であろうということに、薄々勘付きながらも身動きができなかったこと。

強くいないといけないと思っていた。

成果くらいは挙げないといけないと思っていた。

その存在証明が終わらないと、他のことには手を出せないと思い込んでいた。

その末に無理無茶を敢行して、人生から「出来ること」も「楽しいこと」も自ら切り捨てていることに気づいていなかった。


仕事は仕事と割り切る、という考えもあると思うが、社会復帰してまた働くようになって、やっぱり自分は仕事に手を抜く事はできないなと感じる。

心穏やかに過ごしたいのは間違いないが、頑張ることは楽しいことだし、俺は俺を諦めたくない。

だから、これからも色んな事に対峙するだろうけど、その時に描く時間スケールを今までより長く取ろうというのが、今出せるベターな答えだと思う。

焦らない。でも進む。

地を踏む一歩の力強さを覚えながら生きてく。