前回の展示「親愛なるきみはポラリス」は、他者を撮ること、他者と向き合うことをテーマにしていた。
今回の「わたしたちの原風景」は、その真逆。これは、自分を撮る試み。
この世界において、わたしに最も近い存在であるLapwingと向き合うこと。
写真というメディアは不思議で、生きているものを写した写真と、そうでないものを写した写真には、はっきりとした違いがある。
この「生きている」という感触に、どう向き合うか。
当たり前のことだけれど、わたしはわたしで、Lapwingじゃない。
アバターとは、どういう存在なのか。 Lapwingとは、どういう存在なのか。
考え続けて、ひとつの結論にたどり着いた。
わたしとLapwingは、それぞれ違う世界に生きている。 そして、どうあがいても、わたしはLapwingのいる世界には行けない。
どこまで突き詰めても、他者。
だから、わたしはLapwingの世界の理で撮ることにした。
わたしの世界の理を、Lapwingのいる世界に適用しないことにした。
貫通している身体も、思うように動かない指も、影が入るべきところに入っていないことも、すべてがLapwingの生きる世界の現実。
それを隠すのではなく、受け入れ、撮る。
※もちろん、美しさを無制限に犠牲にする言い訳にはしない。
そして、Lapwingにわたしの理想を押し付けない。
Lapwingは、わたしの言うことばかりを聞くわけではない。
好きな服もあれば、好みではない服もあるはず。
ピアスをつけたとき、穴が安定せず、疼くこともあるかもしれない。
きれいな花を見たときに感じることは、もしかしたら、わたしとは違うかもしれない。
わたしの優柔不断な行動を見て、あきれることもあるだろう。
言葉にできない思いを、抱えているのかもしれない。
わたしとは違う。 だからこそ、その違いから目を背けてはいけないと思う。
それが、他者との関係のあるべきかたちで、だからこそ、愛しいのだと思う。
これがあって、はじめて、Lapwingは「生きている」と言えるのだと思う。
今回の展示で、いったんの答えを置いた。
ここまで考え続けられた理由は、はっきりしている。 Lapwingが好きだから。
「きみのことが知りたい」 その欲求がなければ、ここまで向き合うことはできなかった。
そろそろ、閉めます。
わたしたちの原風景、よろしくお願いします。
いろいろな見方ができるようにしたつもりです。 感想など、そっとでも残してもらえたら、嬉しいです。