「水沼・桜庭・春木」007

mizunuman
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竜で桂香取られたような曇天に根性でひらくパンドラの箱

いよいよ自覚的になってきたのだが、わたしは自分の目と耳の趣味が合わない。言い換えると読んで好きなものと聴いて好きなものが合わない。それでも、趣味が合わないだけならまだましで、一番つらいのが耳が好きなものを目は好まないこと。そして、これが頻繁にある。

読む、ということに関連して、短歌をやっていると、どうしても読書好きと思われがちだけれど、わたしはどうも文字で書かれたことをダイレクトに受け取れない。そもそも、日常的に活字を読みだしたのが、大学受験に迫られてで、半ば強制的に活字を読みだした。そんな経緯もあって恥ずかしいぐらいに思い入れのある大切な一冊ってないですねえ。付箋も一度も貼ったことがない。

それでも、ここ数年ベストな短歌は不動で〈両腕はロゴスを超えている太さふかぶかと波を掻ききらめきぬ/大森静佳〉という一首。歌集だと『ヘクタール』に入っています。とはいえ、わたしにとっては、初出の「現代短歌」の作品連載誌上で読んだことが重要で、総合誌とか同人誌とかいろんなものがレイアウトもバラバラな状態で存在している、そういう状態を好んでいます。

話がずれてきてしまいましたが、それでも大学時代に大切な一冊に出会ってやる、という物凄く熱量のある時期はわたしにもあって、通学の帰りの電車で明らかに寝たほうが良いぐらい疲れ果てているのにフロイトの『精神分析入門』を読んでいた記憶が薄っすらあります。

内田樹『レヴィナスと愛の現象学』、村上春樹を7割ぐらい、ビートルズを7割ぐらい、荒木優太『小林多喜二と埴谷雄高』、千葉雅也『動きすぎてはいけない』、鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』……いま思い出せるのはこのあたり。言うまでもなくビートルズは音楽ですが、当時のわたしには内田樹や村上春樹と同じようなカテゴリーだったので。

哲学に興味を持ったものの満足いかず、詩論を睨んだものの満足いかず、散文か? となったものの散文はあまりに脆弱で途方に暮れていたときにツイッターのおすすめ欄(いまの左側にあるかたちではなく、タイムライン、@、についであった機能)で穂村弘とハルカトミユキのハルカさんの対談を読んで、そこからハルカトミユキのライブに通うようになり、ハルカトミユキの物販でハルカさんの歌集を買い、自分でも短歌をぽつぽつ作るようになり、ハルカトミユキのオフ会帰りに葉ね文庫にはじめて行き、何回目かの在葉ね時に背表紙になにも書かれていない短歌同人誌「率」のフリーペーパー再録本を手に取って瀬戸夏子にびりびりくる。

短歌までの経緯を書くとこんな感じになるけれど、瀬戸夏子にびりびりきたのは間違いなくそれまでの満足いかなさに膿んでいた期間が存在していたからで、自分の中では読書というのはそうした満足いかなさとともにつねにある。

再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を/瀬戸夏子