なぜ『余計なひとこと』をつけてしまうのか

まくら
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口頭でも文字でも『余計なひとこと』を自他共に見かける。「興味無いけど」「知らないけど」「好きじゃないけど」などと、内容的には必要なく、聞かれてもいないのに否定的な意味で付けてしまう。もしかしたら否定的なつもりですらない。強い攻撃的な言葉ではなく、おそらく大半が悪意がないひとこと。口にしてから(あ、今のいらんかった)と反省することがある。

『Aは好きじゃないけど、Bは好き!』の場合、『Bが好き!』じゃいかんのか、という話である。

それでも口頭だとまだニュアンスが伝わる分、悪意がないことも伝わりやすい。SNSなどの文字だと読み手によっては『余計なひとこと』が浮き上がって見えてしまう。文章を打ち込んで読み直してみたら(これ嫌な気分になる人いるかも)などと気付くことは多い。

もちろん内容的に必要なこともあるし、苦手なものを主張するなというわけではない。けれど受け取り側によるとはいえ「この内容にわざわざそのひとこと、いる?」と思ったことがある人は多いだろう。

『嫌なら見なければいい』を前提として、わたしがSNSに投稿する時に気にするのは『ほぼ確実にこの投稿を見る人』だ。メンションだったら相手、普通の投稿だったらフォロワーさん。メインアカウントのMastodon fedibirdだったら多くの人が見るタグを利用した擬似TLなど。いつも全部を気にしてるわけじゃないけれど、わざわざ『必要のない余計なひとこと』で誰かに嫌な思いをさせたいわけではないし、後々「あれやっちゃったな~」と気にするのも嫌だ。

それでも度々『余計なひとこと』を発してしまう。悪気はないのだ、いや正直ある時はある。『誰か』に対してではなく『好きではないもの』に対してではあるが。

何故『余計なひとこと』をつけてしまうのか。ひとつは『主張』だ。話の流れでAを出したけれど好きじゃない。『Aを好きだと思われたくない』と無意識だか意識的にだか思ってしまって『Aには興味ないけどね!』と主張する。内容によっては配慮としての『なんらかの誤解を生まないように』(これは必要なひとこと)ということもあるが、『Aは好きじゃないけどBは好き』のように内容的に理由がなくても比較対象のように使われることもある。他にも悪意のあるなしも含めていろいろな理由があると思う。もちろん『Aは好きじゃない』という主張が本題の場合は、それがメインなので『余計なひとこと』ではない。

何かを否定することも、好きも嫌いも主張も自由だ。あくまで『わたしはね』であれば。ただ『余計なひとこと』を言う人に好印象を持つ人は少ないだろう。それが自分の好きなものに対してであれば尚更。

気にしすぎかな、考えすぎかなとも思うけれど、fedibirdのタグTLで『余計なひとこと』について投稿した時、結構肯定的なリアクションをもらった。(画像参照・文字のないものはどれもうなずくアクションをするもの)

つまりそれなりの数の人が『余計なひとこと』に後悔したり傷付いたりしたことがあるんだろう。

主張も思想も『わたしはね』ですむうちは自由だと思うし、個人的な会話意外、ほとんどのものが見ないという選択も出来る。でも少し言い回しを変えるだけでニュアンスが変わったり、内容に不必要な主張を削るだけで自分も人も嫌な思いをしなくてすむならそっちの方がいい。

この考え方を人様に押し付けるつもりはない。いや、もしうっかり読んだ場合は何かの役に立ったりすればいいなとは思うけれど、どちらかというと『自戒』の意味が強い。

『余計なひとこと』のやっかいなところは、大抵悪意が無かったり無意識だったりするところだ。自覚がなければ気を付けることも出来ない。

何にせよ、不用意な『余計なひとこと』は人を傷付けることがある、ということは忘れないようにしたいと思う。

@mkr
もしかしたら誰かの役に立つこともあるかもしれない、自分の為の備忘録。