潜水鐘(ダイビングベル)に乗って DIVING BELLS by Lucy Wood 2012
コーンウォール地方の言い伝えを小説として再構築した短編集。
タイトルになっている潜水鐘で潜った先に現れたのは昔いなくなってしまった人が人魚として美しく泳いでいる様子で、そこに辿り着くまで私もアイリスと一緒にじりじりとした気持ちで海の底へと潜っていく。
言い伝えられた幻たちは、鮮やかな方法で登場人物の前に現れるのではなく、自分を見失いそうな時や迷っている時、夢のようにぼんやりと、そこに在るのがずっと昔から当たり前だったかのように現れる。
何となく聞き覚えのある伝説ばかりで、これらはコーンウォール地方の伝説だったのか、と初めて知った。似た話は他の地域にもあるのかもしれないけど、その土地から物語が生まれて、生活が織りなされていったのだというようなことを思った。
目次覚書
・潜水鐘に乗って
・石の乙女たち
・緑のこびと
・窓辺の灯り
・カササギ
・巨人の墓場
・浜辺にて
・精霊たちの家
・願いがかなう木
・ミセス・ディポリ
・魔犬
・語り部(ドロール・テラー)の物語
途中、ムーア(湿地)の魔犬というワードが出てきて、『バスカヴィル家の犬』を思い出してちょっとにこっとしてしまった。もちろん話の内容は全然関係ないけど、同じ物語を背景に持っているのでそこでも伝説というものの豊かさを感じる。
「浜辺にて」は海辺の洞穴に住む祖母と、その祖母を訪ねる孫息子の話で、一番好きだったかもしれない。子供特有の賢さというものを理解している大人の話が好きです。
こうして目次を眺めていると、どの話も昔の知り合いの話を思い出すような感じがするのが面白い。
私の生活に、この小説たちのような物語はあるだろうか。 佐藤さとるのコロポックルシリーズに出てくるコロポックルは近いかもしれない。あと、スズキコージの『大千世界の生き物たち』かな。でも、ここまでくるとあまり、土地性は関係なくなってくる。
この頃、北海道に住む人は開拓史に誇りの比重を置きすぎているのだということを考えていた。或いは、北海道の歴史=開拓史のような認識がもうほとんど刷り込みのようになってしまっているということを。
建築ジャーナル 2023年10月号NO.1347 特集アイヌ民族と建築 p25座談会より引用
http://www.kj-web.or.jp/gekkan/2023/2310.html
「北海道の開拓万歳感はすごいですよね。本州の人間からするとなぜそこまで盛り上がれるのか、容易には理解できません。」
「『フロンティア精神』とか、今でも平気で使われてしまうわけですから。」
「開拓の努力こそがこの土地が故郷だと言える根拠、アイデンティティになっているのかもしれませんね。」
言われてみると、新千歳空港でお土産売り場を眺めると一目瞭然だが開拓由来の命名がされたお菓子がやたらとある。一度気がついてみると、街を歩けばどこにいっても必ず開拓に関連する言葉にぶつかることに驚くし、今までそこまで意識していなかったことにも驚く。(現代日本語が戦争用語や戦争に意味を奪われた言葉で溢れているのにも似ている。これはかなり注意深くしていないとうっかり使ってしまう)
和人がこの土地を大規模に開拓して北海道と名付けてから150年くらいが経っている。歴史という視点に立つと150年というのはとても短い。
その短い期間に比べて、それまでアイヌの人たちが語ってきた物語の方が豊かだったと言うことは簡単だけれど、個人の視点に立てば3,4世代くらいには渡っているのだから150年は長い時間であり、様々な土地から北海道にやってきた人たち、生活を奪われたアイヌの人たち、そういった、そこにいる人間の物語を語る時に「輝かしい開拓史」以外にももっと残しておくべき、語られて然るべき物語があったはずだと思う。
もちろん、それぞれの市町村の図書館や資料館にはそういった物語や記録が残っている。アイヌの人たちには簒奪の歴史として記憶されているだろうと想像する。
コーンウォール地方の伝説を引き合いに出すとちっぽけに見えてしまうかもしれないけど、そうやって細い糸のように残されてきた記憶こそを、私たちの物語にしたい。
元旦の朝、私はお雑煮を食べながら母から母の子供時代のお正月の話を聞き、そこから派生してその頃の暮らしについての話を聞いていた。
歴史が大事だとかそういうことではなく(歴史は大事だが)、そこに誰かがいて生活していた事実というのはどうしてこう、忘れ難い気持ちにさせるんだろう。平和を祈るのと、少し似ている。