「とともに」考えるという情報体のパターン

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公開:2024/11/10

「とともに」考えてきた私と作品との思考のパターンがなぜ出てきたのか.それは,私がインターフェイス体験の考察において,コンピュータとともに認知し,行為することを体験してきて,それを分析してきたからだと思った.目を逸らさなければ書けないとあるが,私は眼を逸らすのでなく,体験に入り込んでいって,その体験を対象とともに書くことを選択した.

ということを『非美学』を読んでいるときに考えて,書いて,コピペしていたのであった.コンピュータとともに考えてきた月日もだいぶ長い時間経ったわけで,そこから感じられる思考のパターンの変化というのは,私だけの変化ではなくて,パソコン,スマホ,キーボードなどのインターフェイスの変化でもあって,これらの変化を含んだ情報体としての変化が,私の思考の変化に影響しているというか,情報体の変化がすなわち私の思考の変化であり,肉体の変化でもある.でもそうすると,情報体というのはマジックワードになってしまうのだけれど,マジックワードを設定しないと,このあたりのことは書けないのではないかと感じている.マジックワードをマジックワードとして多用していくと,マジックワードの輪郭が出てくるのではないか.そんな感じで,バルクとサーフェイスを考えたけど,それはうまくいったのかどうかはわからないけど,今になって,情報体につながっていると手書きで書いたところが興味深いところ.キーボードでは出てこない文字列が,手書きで出てくるというのは,行為のパターンの変化が,思考に作用して,結果として,文字列という情報体の変化が生まれるようになっている.肉体と思考というペアをペアにしてにしているものとして,情報体を考える.パターンのパターンのパターンという感じで,何重にもパターンがあって,それらをどんどん書いていく.情報体も膨大にあって,そのうち私が引き込まれている,巻き込まれているパターンはごくわずか.「ごくわずか」ということではなくて,それは私のパターンとしてあって,私にとってはそれが全てではあるということなんだけれど,情報体はパターンのパターンのパターンという感じで,リンクしあっていて,重要なのはそこに全体がないということで,だから,「ごくわずか」かどうかはわからないというという方が正しいのかもしれない.リンクをたどりながら,パターンを記述する.これを繰り返していって,私の肉体と思考がそこにあって,それは今日だと,福尾匠のパターンに巻き込まれて,この巻き込まれてというのは平倉圭のパターンであって,そんな感じの巻き込みが起こる情報体が私とともに今日あって,そこで私の思考があるパターンを形成して,冒頭の文字列を出力したということになる.でも,このように書いても,一切,情報体に近づけていない感じがある.先日の,行って帰ってきてという感じで書いたときの方が,情報体が身近に体験できたような気がする.ここ数日,情報体があると信じ込んでテキストを書き進めているけれど,まだまだ信じ込んでいるだけで,情報体があるという体験はやってこない.神を体験するということに近いものだから,修行あるのみという感じがある.

山本浩貴の『puffer Train』で,勝手に情報体パートとしたところを再度読みたいと思ったのであった.