情報体を考えるための知識を得るために『唯識の思想』を読んでいたのに,途中から,私の生き方を変えるためにこの本を読んでいるのではないかと感じるようになっていった.生き方を変えないと,考え方を変えないと,情報体を感じることができなくて,それは,情報体を信じられないということになって,考えた末に,私が書きたいことが書けないような気がした.だから,考えを変えてみることにする.阿頼耶識から情報体を透かし見たいと思っている.阿頼耶識を知識ではなく,体感するように生活し,思考し,行為していく.これが情報体について考えて,体感していくことに繋がってくるような気がしている.
〈視界〉もまた変わってくるだろう.今の考えを体感するために,考えというか,行為を変えてみるというか,生活の根底にある流れを変えるという感じだろうか.〈視界〉は私がつくるということを考えられてはいるが,体験はまだあまりできていないので,唯識をフックにして,生活している根底にある考えや感情の流れを変えてみる.そうすることで,〈視界〉の能動性を体験できるかもしれない.〈視界〉のバグを探るのではなくて,〈視界〉が構築されるプロセスをダイレクトに体験する生活を組み立てる.生活を思考に組み込む,逆かもしれない,思考に生活を組み込んでいく.そこから生まれてくるものを掬い取って,記述していく.その準備として,ここで日記が書かれていたのだろう.
ここ二日位,私は自分が薄くなっている感じがあって,それを否定的に捉えていた.けれど,それは肉体や心が重くなるのではなくて,薄く軽くなっていると捉えると,ポジティブに捉えらえられるのではないか.すべてをポジティブに捉えるということではないけれど,どこか私が今感じている,私の薄さは私をこれまではいけなかったところに連れていってくれるのだろうし,そこから私はあらたな〈視界〉が得られそうな気がしている.それがどんなものになるのかはわからないけれど,〈視界〉において具体的な視点と俯瞰的な視点がとが入れ替わりながら,〈視界〉が構築されるプロセスを探っていける体験が生まれるといいなと思っている.
私は「透かし見る」という行為が好きなので,「透かし見る」になりきってみる.なにを言っているのだという感じだが,「透かし見る」という行為になりきるとどうなるかを考えて,それを感じてみる.「透かし見る」という行為に成り切ったとき,私は私ではなくなり,見ている対象も対象ではなくなり,「透かし見る」のなかに取り込まれていくのだろう.そして,「透かし見る」のなかにある「透かされる」存在もまた,その行為に溶け込んでいって,その状況で考えられてくることを記述していく.そうすると,これまでとは異なる作品記述からの思考といったものができるのではないか.記述することも含んだ思考という行為自体が「透かし見る」となっていく.この状態になるということが,今年のというか,ここ数年の目標となっていくだろう.