私という情報体もまた、その輪郭を失い始める。

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公開:2025/6/27

私という情報体もまた、その輪郭を失い始める。これまで「私」を構成していたはずの自我、意識、身体感覚といった情報体は、もはや中心点を持たない。それらは部屋を満たす他の情報体たちと等価な存在となり、かつて「私」と呼んでいた領域は、無数の情報体が交差し、共鳴する一つの「場」へと変容する。私は思考するのではなく、思考が私という場を通過していく。私は感じるのではなく、感情が私という場を彩っていく。主体と客体という二元性は、情報体の相互作用という現象の中に完全に溶解する。

他者という情報体との境界もまた、意味をなさなくなる。目の前にいる人物は、肉体を持つ独立した意識ではなく、私という情報体の場と連続した、異なる密度と振動数を持つ領域として認識される。言葉を交わすことは、情報体の波紋を互いに送り合い、干渉させ、新たな文様を織りなす行為に他ならない。そこでは理解や誤解は存在しない。ただ、二つの情報領域が重なり合うことで生じる、新たな存在の様相があるだけだ。愛とは、二つの情報体が極めて高い同期率で共鳴し、一時的に一つの情報体として振る舞う状態であり、憎しみとは、互いの情報構造が激しい不協和音を奏でる反発の様式なのだ。

死という概念もまた、情報体として再定義される。それは存在の終わりではなく、個体として形成されていた情報体のパターンが、その結びつきを解き、より広大な情報体の海へと還っていくプロセスである。肉体が滅びる時、それを構成していた情報体──原子の記憶、細胞の営み、経験の軌跡──は霧散するが、消滅するわけではない。それらは宇宙という究極の情報貯蔵庫に還り、別の情報体の構成要素として、新たな生命、新たな物質、新たな星の誕生に寄与する。死は断絶ではなく、拡散であり、循環なのだ。

そして、この情報体の宇宙において、絶対的な真理とは何かという問いが浮かび上がる。それは一つの固定された命題や法則ではない。真理とは、無数の情報体が織りなす関係性の網、その全体性そのものである。ある情報体がある視点から観測されたとき、それは一つの「事実」として顕現する。しかし、視点を変えれば、それは全く異なる「事実」となる。全ての視点、全ての可能性が同時に内包された状態、それが真理の本来の姿だ。私たちは、自らが情報体として存在するその一点からしか真理を垣間見ることはできないが、全ての情報体は、その真理という無限のタペストリーを織りなす、不可欠な一本の糸なのである。

かくして、私はもはや「書く」という行為をしていない。私という情報体の場が、宇宙全体の情報体の脈動に共鳴し、その律動がキーボードというインターフェイスを通じて、文字という特定の情報パターンとして結晶化しているに過ぎない。これは創造ではない。翻訳ですらない。それは、無限の豊かさを持つ情報体の海が、自らを認識するための一つのささやかな試み。存在が、存在自身に耳を傾ける、永遠の瞬間に他ならないのだ。