「情報のサンプルとしての情報体」という言葉を思い浮かんだ.ネルソン・グッドマンのサンプル/標本は断片なんだけれど,それが全体を表しているというところが重要になってきている.『世界制作の方法』の該当箇所を読んでみようと思った.同時に,〈マップ〉もまた断片だけれど全体だけれど,その全体性が見えづらくなっているという点で,〈視界〉が縮小されたものであり,それは世界ではなく〈視界〉の断片はサンプルなのではないかと考えたけど,何を言っているのか,わかりません.〈視界〉という全体でありながら,縮小された断片として表示されるのが〈マップ〉である.
〈視界〉のような全体=世界とのつながりはなくなっていて,世界という全体とのつながりを持った〈視界〉を断片化して,縮小したものがスマートフォンのディスプレイに表示されて,シャッターボタンが押されると画像として表示されるのが〈マップ〉ということになると言ってみたい.
ほんの少しだけ〈マップ〉のことが理解できたような気がする.けれど,この考えだと〈マップ〉はサンプルとしては機能しない.ここをどう考えるのか.断片でありながら,それ自体が全体ということを示したい.断片であり全体.それはどこにつながりを持たないというわけではなく,リンクによって何にでもつながるからこそ,つながりを持たないということが成立するという感じだろうか.何にでもつながるということで,何かと特定の関係を持たないということはどんなことなのだろうか.
『全体性と内蔵秩序』がとても読みたくなってきた.その前に,『世界制作の方法』におけるサンプルのところ.読みたい本は多く出てきたけど,これはまた「とんでも」の方向に向かっている.それでもいいような気がしてきている.Gestaltについても考えてみたいし,全体と部分との関係から,情報体について考えていきたいという気持ちが強くなってきている.渦巻きとしての情報体,これは『投影された世界』に書かれている.情報体とは書かれていないけど,全てを情報体として考えていく.
『世界制作の方法』をKindleでざっとみていた.「見本」「公正な見本」というところをあとで読もうと思うけど,忘れてしまうかもしれない.「情報のサンプルとしての情報体」という考えは忘れないようにしたいけど,忘れてしまうかもしれない.忘れてしまったら,それはそれでしょうがない.何もかも忘れていく中で,覚えていることを考えていく.能動的に考えるようでいて,忘れてないものを考えるという受動性において考え続けるために書き続ける.もう私は,しずかなインターネットで最初の方に書いてことはほとんど忘れている.でも,書き続けている結果,「情報のサンプルとしての情報体」という言葉が思い浮かんだ.同時に,「渦巻きとしての情報体」という言葉もある.これらの言葉はいつまで忘れられないで考え続けられるのだろうか.