NEORTで古澤龍さんの《Passing》の前に立つ。はじめ、変化がないぞ、と思った。じっと見ていると、映像がグネりはじめて、その瞬間に、映像の面そのものが反転していると気づく。文字が逆向きになる。カメラが映像の「裏側」をとらえていると、最初思ったけど、そうではないだろう。この作品においては、撮影が終わった地点には、もうカメラという存在はない。カメラが記録したデータからつくらえた、映像の立方体をどう切り取るかにカメラは関係ない。カメラということに引きづられたらいけないと。カメラがなくなって、画面に残っているのは、面そのものの反転だけだ。
庄野さんに、反転した文字が気になって、と話しかける。話しているうちに、映像に閉じ込められている感じ、という言葉が口から出た。出ようとすると、映像のほうが先回りして塞いでくる。手前に映っているものの実在感が過剰で、その過剰さが、奥行きをむしろ平らに押し戻してくる。このディスプレイだから成立する感じがあって、別のサイズ、別の解像度なら、きっと別の体験になる。もっとぼやけた感じになって、そこにリアリティを感じないのではないか。
フレームや柵が、やたらきれいに画面に残っている。世界はフレームで満ちている、と思う。細部ばかりを見てしまう自分に気づいて、一度引いて全体をみる。引くと、平面から立体がじわっと生まれる。グニャとした曲がりが出てくる。世界が曲がる、とメモに書いた。『インセプション』でも起こっていたことが、ここではさらに強いリアリティで実現している気がする。
そのまま、光の時間差のことを考えはじめる。太陽からの光が反射して、目やレンズの素子に届くまでのわずかな差がある、昔、新幹線に乗っているときに考えたことを、今回なぜか思い出した。遠くから反射する光には情報が多くあるから速くて「見える」ようになり、近くから反射する光には情報が少ないから「見え」ない。見える/見えないは結局、人間の意味のフレームの話に過ぎなくて、そのフレームに収まらないものは、見えないし、わからないと思っている時に、《Passing》から、ときどき、世界が軋む音、時空間が軋む音がする気がした。その音を聞いていると、わたしは世界のバグが出るのを待っている、そんな態度で、作品の前に立っていた。
あと、こんな高解像度で世界を認知したら、わたしの脳は破裂しそうと声に出さずに言う。意識が湧き出るところ、悪魔、という言葉が頭をよぎる。『世界は時間でできている』の平井さんに見てもらいたい、と思った。どのように考えるだろうか。