情報体についてここ数日書いていなかったから,今日は書きたいと思う.でも,Twitterで連投がしにくくなっている,長文を貼り付けて,超過したところをコピーして別のツイートにするを防ぐために,投稿テキストのコピペができなくなっている.いやらしいな.課金しろということだろうな.課金するか否か,別のSNSに移るかどうか,ここでかければいいかという気もしてきた.ほかのことから得られる情報もあるけど,それを絞っていってもいいのかなと思ってもいる.このようなことを考えるとき,情報体はどのように作用しているのだろうか.私の意識を形成するのは,私だけではなくて,Twitterの仕様も影響をしているということだから,私はTwitterでもある.でも,この場合,Twitterは私であるということは成り立たない.で,情報体となると,私は情報体であり,情報体は私であるということは成り立つ.成り立つのか.そもそも情報体は情報のパターンで,あるパターンが私となっているだけであって,別のパターンになったら,私ではなくなる.だから,情報体は私でもあるが,他者でもある.私だったものが他者になる.でも,これは書きたいこととは異なる感じがする.コンピュータを使っている感覚の蓄積が,情報体を徐々にリアリティを与えてきたとすると,何を持って,感覚の蓄積というのだろうかということを考えるが,何を持ってだろうか.行為を制限しながら,思考を促進するというバランスが崩れたことで,情報体へのアクセスが開けたと考えられないだろうか.文字を書くが思考であって,文字を書く以外の手段がペン以外に考えられなかったときは,文字を書くということと思考のスピードが合っていたのではなくて,思考を外在化する唯一の方法だったので,思考と書くことに齟齬はなかった.でも,話すということもあるから,話す思考と書く思考とは齟齬があっただろうけど,書くと話すは異なるから比較の対象とならないとしてしまう.でも,この考えだと,キーボード,タイプライターとペンで書くということの違いを考える必要がある.タイプライターについては,キットラーが考えているから,ここは避けたいというか,考えたところで何になるという気がする.となると,ディスプレイとキーボードとの組み合わせの特異性を考えて,それがペンで書くこととどのように異なるのか,ということから,情報体へのアクセスを考えられるのだろうか.この流れは,とても消極的すぎる.直感的にもっと迫れる方法があるような気がするけど,思い浮かばない.情報体が児嶋さんの作品を考えるときに感じられたこと,私の中にあって,私がアクセスできないような蠢きが情報体を形成していて,それは〈視界〉となる手前の状態に留まっている.〈視界〉が現れると,情報体はもう感じられない.エキソニモの「Sliecd」シリーズのモザイク部分に情報体が感じられる.ピクセルというわけでもない.メディア映像史の担当分の初回で,情報体について話したいと思っているのに,これだとあまり話せない.インターフェイスの歴史は,情報体を意識に上げる歴史であって,それは,ヒトの行為が平面的になっていく歴史でもあると言えて,だから,何なんだという感じもある.行為を最小化することが,情報体へのアクセス,情報体を検出可能にする手段になっているというのは,正しい直観のような気がしている.でも,それをどう言葉にしていくのかがわからないでいる.