骨折した話

むぎとろ
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 足の骨を折った。

 出勤前、息子を保育園に送る途中のことだった。バス停まで息子と手を繋ぎ走っている際、何もないところで躓いた。幸いにも息子は擦り傷ひとつ負わなかったが、私は膝を強打した。

 膝はとてつもなく痛んだが、その時はまだ歩くことができた。よろよろとバス停まで歩き、バスを降りてから保育園まで5分ほど歩き息子を預け、保育園から更に10分ほどの職場までも歩いた。職場は接客…とは少々異なるが一種のサービス業で、しかも私はその日、立ち仕事の当番だった。

 昼に差し掛かったころから、痛みがどんどん酷くなっていった。足をつくだけで痛い。曲げることなど到底できない。偏頭痛用に持ち歩いている解熱鎮痛剤を服用しても全く痛みが引かず、作業をしていても常に痛みから来る焦りが脳を支配していた。

 早退して病院に行きたい。そう思ったが、私の職場は圧倒的に人手が足りない。通常7〜8人は必要であろう規模を3人のスタッフで回しており、しかもその日は1人が有給を取っていた。私が帰るというのは即ち職場を休みにするということになり、そんな責任は負いたくなかった。

 退勤する頃には膝が1.3倍に膨れ上がり、一切曲げることが出来なかった。幸いにも翌日は誰も休む予定がなかったため、帰りの挨拶でBOSSに事情を話し、翌日は通院後に出勤するということの了承を得た。

 翌日。息子の保育園は夫に頼み、私は朝7時半から整形外科に並んだ。病院の前に順番待ちの為に置かれた冷たいベンチで開院までの一時間半、隣に座った古希を幾らか越えたくらいのお父様のお話を聞いた。

「おれの友達はヒートショックで死んだ。冬の風呂場はよくよく気をつけないといけないよ。」

「おれの友達はこの間転んで腹を打って腸捻転になったんだ。」

 私の職場に来るのは子どもとその保護者が殆どで、高齢の方とのんびり話をする機会はほぼない。寒い寒いとぼやきながらのんびりとお話を聞くのは案外面白く、待っている間も苦にならなかった。

 開院し、杖代わりに傘をついてよろよろと歩いていると、颯爽と現れた看護師さんに車椅子に乗せられた。あからさまに車椅子に不慣れな私の様子が目に余ったのか、レントゲンや診察で移動が必要となると誰かしらスタッフの方が現れて押してくれた。混んでいるのに。めちゃくちゃ有難い。そしてスタッフの人数多くてとても羨ましいです。

 「ここ、ヒビが入っていますね。骨折です。」

 レントゲンを終えて通された診察室で言われたのは予想通りの言葉だった。

「二週間は絶対安静にしないと膝の皿が割れます。そしたら手術です。」

 真っ直ぐに私の目を見て言った若い先生はとても誠実そうだった。仕事は休んだ方が良いですよ、休めるならば。事前に記入した問診票に書かれた私の職業を見て眉を顰めて言った先生に「ですよねぇ〜」と答えながら、私は内心で無理だなと呟いた。なんせその翌日と翌々日は職場のスタッフが一人有給を取っていた。休みをもらえる訳がなかった。

 面白かったのは膝に溜まった血を抜いたことだった。話には聞いたことがある、けれど経験するのは初めてだった。

 「痛いですけど頑張ってくださいね。」

 『ちょっとチクッとしますよ』どころではない。明確に痛い。しかも、溜まった血を出す為に先生が膝をぐりぐりする。痛い。めちゃくちゃ痛い。でも興味はあるのでちょっと楽しい。

 「こんなに取れましたよ」

 見たことがないほど太いシリンジにたっぷり入ったドス黒い血を見せてくれた先生は心なしか楽しそうだった。それって感染ゴミになるんですか?と聞きたかったけれど、ふざけたヤツだと思われたくなかったので我慢した。

 それからは松葉杖を借り、どうにかこうにか暮らしている。職場を休む許可は案の定降りず、えっちらおっちら杖つきながら仕事をしているが、元々仕事は好きな性分なので問題はない。人手はもっと欲しいけれど。

 ところで子どもの多い職場で松葉杖を突いているとどうなるか。

 答え:めちゃくちゃモテる

 「あしどうしたのー?」「こしょうしたのー?」「え!?ころんだだけでこわれたの?」「ぼく、ころんでちがでたんだよ!!」

 心配そうな顔をしたお母さんたちも「マジでただ転んだだけで骨折れたんですよ!!お母さんも気をつけて!!」と言うと笑ってくれる。良き哉。

 思えば出産後、今の職場に週6で勤務する様になってから一人になる時間など殆どなかったのだけれど、今は隔週で通院のために午前休をもらっている。混み合っている整形外科の待合室では四年ぶりに小説を一冊読む事ができた。小耳に挟むお年寄りたちの会話も新鮮で面白い。

 この寒いのに入浴が出来ないことと、汁物を運ぶのに家族の協力を得ないといけない事が難点だが、私としては案外この状況を気に入っている。フォローに回ってくれる周りの方々には申し訳く、あまりにも無神経な気がして口には出さないのだけれど。

 きっと、怪我が治ったらまた読書をする暇もない。せめて今のうちにたくさん読んでおこう。