「溺れてるときはふしぎと苦しくなかった。鼻や口に水が入ってくるけど痛みも何も感じなくて、視界がうっすら暗くなってお腹が下にひっぱられて沈んでいく感じ。ひっぱられるっていうのは違うかも。下に引かれてるのに全身を優しく支えられているみたいで、頭を空っぽにして身を委ねられた」
薄暗い病室の中で、彼女の肌は灰色に見えた。楽しそうにしゃべるが、あまり人の目を見ず、表情がうつろだ。心配させまいと無理をしているのかもしれない。この話も見舞いがくるたびに何度もさせられているのだろう。彼女の容態を気遣って早めに切り上げた。
病院の外に出ると、霧雨が降っていた。傘をさしていても、風が吹いているせいで細かい雨が肌に当たってくる。髪が湿気を吸って膨らんでいくのを感じる。不快なので早く駅の構内に入ろうと早足で歩いていると、グレーのパーカーを着た男が駅前で白紙を掲げて立っているのが見えた。なにかのパフォーマンスだろうか。この天気の中あんな意味のないことをやるなんて根性のあるやつだ。
◆
「疲れていて文字も読めないしパズルなんかもできないの。お見舞いでもらったけど持っていってくれる?自分のものにしてもいいし捨ててもいいから」
彼女は顎でベッド脇にある本や雑誌の山を示した。流行のミステリ小説や女性向けの雑誌、パズル雑誌などが10冊くらい積んである。置いておいて病状が回復してきたら読めばいいと思ったが、それを言うのは無神経な気がしてやめた。本人は言わないが、顔つきを見ても良くなっている感じはしない。もうこの本や雑誌を彼女が必要とすることはないのかもしれない。荷物になるが、文句は言わず持って帰ることにした。
まだ午後4時位なのに、外はもう暗くなりつつあった。本と雑誌が濡れないよう、紙袋を片手で抱いて傘をさして歩く。今日も白紙の男がいた。傘もささずに。この駅は彼女のお見舞いをするときしか来ないのでわからないが、毎日いるのだろうか。
◆
フィクションの本も雑誌も読まないので、彼女にもらった本などはぜんぶ古紙回収に出そうと束ねていたら、小さいサイズのイラストロジックの本が1冊出てきた。やったことはないが、暇つぶしに良いかもしれない。
そう思ってやってみたが、どれもよくわからない絵にしかならない。回答ページを見ると、そのよくわからない形で合っているらしい。「答え:ガルシュラッパ」などという文字も添えられているが、聞いたことがない言葉ばかりだ。一体どんな出版社がこんな訳のわからない本を出しているんだと思って奥付を見ると、「幅野書院」と書いてある。インターネットで調べてもウェブサイトなどはないようだ。奥付に書かれている所在地を見ると、見覚えのある場所なので驚いた。職場の近くだ。なんだか気持ちが悪くなり、本は燃えるゴミの袋に入れて次の日捨ててしまった。
◆
「本当はもっと痛いはずみたい。私はなぜかそんなに痛みを感じないんだけど。お腹のあたりに鈍痛がずっとあるけど、嫌じゃなくて何か大事なものみたいな感じがする。お腹に子供がいるときってこんな感じなのかも。どう思う?」
どう思うと言われても、そんな経験はないからわからないとしか言えない。なので黙っている。それにしてもこの病室は暗い。こんなところに一人でいて気分が沈まないのだろうか。でも彼女はその落ち着いた雰囲気と静けさが気に入っているのだと言う。救急搬送されて来た病院がここで良かったと。そう語る彼女の頬はげっそりこけている。灰色の肌をしてやせ細った彼女は、映画に出てくるゾンビに似ている。
外は雨だった。ここに来るといつも雨が降っている気がする。まだ昼過ぎなのに薄暗く、街は灰色だ。今日もあの男がいる。いつも高く掲げている白紙を、今日はただ下におろした手に持っているだけだ。グレーのパーカーが雨に濡れて黒くなっている。男がひどく哀れに見えて落ち着かなくなり、急いで駅に入った。
◆
外回りから会社に帰る途中、いつも使っている道が工事で通れなくなっていた。やむを得ず迂回をするが、知らない細い道に入り込んでしまい、軽く道に迷ってしまった。なんとかして会社に戻ろうとうろうろしていると、目の前に灰色のビルが現れた。エレベーター脇の表示によると、3階に幅野書院があるらしい。まさか実在するとは思わなかった。しかもこんな風に偶然のように出くわすなんて。
3階を見上げると、あの男がこちらを見ていた。駅前で白紙を掲げているパーカーの男だ。今日は紙を持たず、片頬と片手をガラスにぺったりつけてこっちをじっと見ている。なぜあの男がここにいるのだろう。嫌な感じがして急いでその場を離れた。
◆
「もう無理して来なくてもいいよ。みんな来なくなっちゃったの。入院がこんなに長引くと思わなかったんだろうね」
彼女は宙を見つめ、無表情で言った。暗い病室の中、白いシーツに包まれた彼女は木の枝のようだった。やはりこの病室は来るたびに暗くなっている。正直ここに来ると気が滅入るのでもうお見舞いはやめようかと思っていたが、「また来るよ」と言う。その言葉は自分でも恥ずかしくなるくらい空虚に響く。彼女は顔を背けながら「さよなら」と言った。
駅前ではあの男が立っていた。傘の下から見ていると、男もこちらを見た。我々は一瞬見つめ合い、そしてすぐに目をそらし、それぞれのいつもの行動に戻った。男は立ち続け、私は駅に駆け込む。駅構内で傘をたたみながら、駅の外に目をやった。灰色の街が夜に沈みつつあった。