クキコが目を覚ますといつもの歪んだ黒い天井が目に入った。視界がぼんやりしているのに、その歪さだけは妙にくっきりとして目につく。それが本当に歪んでいるのかクキコにはわからない。建物がこうしてしっかり建っているのだから、錯覚で歪んでいるように見えるだけで、実際にはきっちり四角く作られているのかもしれない。だがそんなことはどうでもいいことだった。今日も一日三回の食事がきちんと与えられるか、今日は何もせずに寝ていられる日かどうか。クキコはそのことしか考えない。
窓の外は明るい。記憶をたどり、おそらく今は朝なのではないかと考えた。寝る前はたしか日が傾いていたように思うからだ。ここに来てから、食事や何日かに一度の風呂、それにそのあとの「仕事」以外は、だいたい寝て時間を過ごしている。ナツは言っていた。食事に薬が入っているのだと。少女たちが逃げ出さないように、日中は薬で眠らせているらしい。「あたしはそれに気づいたから、出された料理の中でも薬が入ってそうなものには一切手をつけないようにした」とナツは自慢げに言った。そして「あんたもそうしな」と。クキコはそんなことをする気はなかった。眠らされるくらい何だろうか。家にいたときには、少しでも長く寝ていたいのに早朝からたたき起こされ、家の手伝いや兄弟たちの世話をさせられた。すきま風の吹く汚い部屋で、たくさんの兄弟とせんべい布団で寝た。そんな生活より、布団の敷かれた寝台で昼間っから寝ていられる方がいいに決まっている。それに食事。ここにいれば魚や卵、果物、それにパンも食べられる。饅頭や甘い焼き菓子が出るときだってある。薬が入っていようが構うものかとクキコは思う。
ナツはそんなクキコの様子がとても不満らしい。自分のようにこの異常な状況に反抗すべきだというのが彼女の考えだ。ナツはおかしな娘で、建物の外側を伝って窓から遊びに来る。この館の別の部屋でクキコのように暮らしているのだが、こっそり窓の格子を外して外に出てくるのだ。格子はいつも身につけていた工具で外したらしい。身のこなしはかなり軽く、本当か知らないが孤児になってから盗みをして暮らしていたことがあると本人は言っている。だから工具や金を隠し持っているのだと。しかし両方とも今は取り上げられてしまったようで、よくそのことをこぼしている。
ナツがくるとクキコは窓枠にはまった木製の格子ごしに少し窓を開ける。するとナツは格子越しに出来うる限り顔を突き出してべらべらやり始める。ナツは細い手足にガリガリにやせた体をしているが、目だけは異様に爛々と光っている。その風体がクキコは好きになれないが、何しろ部屋に閉じこもって暮らすだけの生活なので、人のお喋りを聞くのは気晴らしになる。だからナツのことは好きになれないけれども、来たら来たで喜んでそのお喋りを受け入れているのだった。
ナツは最初、クキコの身の上を訊いた。クキコは自分のことを話すのにひどく苦労した。今までクキコの話を聞こうという者など一人もいなかったので、人に自分のことを話したことがなかった。両親はクキコが喋るとも思っていないようだった。一方的に用事を言いつけるだけだ。兄はクキコを足りていないと思って相手にしないし、弟たちはそんな兄に影響されてクキコを頭から馬鹿にしていた。学校の先生たちもクキコの話を聞こうとはしなかった。級友たちも同様だった。薄汚い身なりの貧しい少女は、まるで教室に存在しないかのように扱われた。例外は悪ガキどもで、クキコのみすぼらしい風体をからかったりわずかな持ち物を奪ったりしていじめた。そんなときクキコは口を引き結んで何も言わずに耐えた。結局クキコが学校で学んだのは、自分は大人にとっても子供にとってもいらない存在だということだけだった。だから彼女はもう12になるのに文字を読むことすら覚束ない。クキコは頑張って、自分が小さな温泉街の小さな土産物屋の娘であることをナツに伝えた。両親がいるというだけでナツはクキコを羨ましがったが、役立たずで酒を飲んでは家族を殴る父親と、長年の苦労ですり切れて中身がすっかり空っぽになってしまった母親なんて、別にいなくても良いとクキコは思っている。
「ここに来た子は半年くらいで使い古された襤褸雑巾みたいに死ぬんだよ」
クキコの身の上を聞いた後、自分の身の上を長々と話したナツが、次に言ったのがこれだった。クキコはそれでもいいと思った。冬なのに暖かい部屋で暮らせる。食事が出て一日中寝ていられる。これ以上求めることがあるだろうか。家に戻るくらいなら、半年ここの暮らしを経験して死んだ方がいい。
「あたしは絶対にそんな風に死にたくない。ここから逃げ出してやるんだ」
ナツは何度もそう言った。
「そのまま下に降りて逃げたらいい」
「だめなんだよ」 ナツは悔しそうに言った。この建物はおかしな構造になっているらしい。クキコは自分がいるのが2階だと思っていたが、窓から下は3階分の高さになっている。土地が段になったところに半分は2階建て、半分は3階建ての館が建てられているのだ。そして3階の高さから安全に降りる方法はないらしい。足がかりになるようなものや飛び降りたとき体を受け止めてくれるようなものもなく、ナツはこちら側からの脱出は不可能と思い始めたそうだ。
「なんとかしてキヌタとサトの不意をつき部屋を出て、下の階の窓か戸口から出るしかない」 そうナツは言う。キヌタとサトはここの使用人だ。特に身分などは聞いていないが、クキコとナツはそう理解している。キヌタの方が偉い。岩のようにごつごつとした中年女で、いつも不満をこぼしサトに高飛車に命令をしている。サトは牛のように体格のいい、いかにも農家の生まれという見た目の女だ。年の頃は二十歳前後か。いささか頭の回転は遅い様子で、キヌタに大声で命令されながらいつもまごまごしている。
ここに来る大人はもう一人いる。「奥様」である。何日かに1度やってくる。ここにいるうち、クキコは奥様が来る日は周りの様子でそれがわかるようになった。まず、朝飯を食べても眠くならない。昼食後にはサトとキヌタがたらいやら石鹸やらを持って来て、クキコの体を徹底的に洗う。奥様は綺麗好きだからだとキヌタは言う。クキコの体に触るとおかしな病気に感染するとでも思っているのか、キヌタは絶対にクキコの入浴に手を貸さない。すべてサトが行う。入浴がすむと、清潔な黒いワンピースを着せられる。いつも着ているのと同じものだ。いったいこの館には何着このワンピースがあるのだろうとクキコは思う。ナツも同じものを着ているし洗い替えがそれぞれにあるとして、最低でも4着はあるのだろうか。少し肌にごわごわするし窮屈だが、家で着ていた垢じみた襤褸よりは格段にマシだ。それにクキコの懐かしい人形が着ていた服に少し似ていて、クキコはこの服を内心気に入っていた。
着替えが終わると、クキコはキヌタとサトに付き添われ、自分の部屋がある階のいちばん端の部屋に連れて行かれる。そこはただ壁と窓があるだけのクキコの部屋とは違い、濃緑色のじゅうたんが敷かれ、高価そうなテーブルとソファが置かれた空間だ。クキコはこんな部屋も調度も見たことがなかったので、初めて入ったときには夢中できょろきょろと見てしまい、キヌタに叱られた。その赤い布張りのソファにいつも奥様は座っている。洋服を身にまとった細身の女の人だ。年齢は40代か50代、皺はあるものの美しい部類の顔をしている。ただ目つきにやや険がある。奥様はクキコに口を聞くことはない。クキコは奥様の正面に座らされ、テーブルの上にあるカップの中身を飲む。それは泥水のような色の液体だが妙にどろりとしており、おかしな味がする。薬湯のような、ピリピリとしびれる感じもある。それを飲んで少しすると目の奥が痛くなってくる。そのうち頭と体が切り離されそれぞれが別に浮き始めるような感じがし、気づくとまた自分の部屋に戻って寝台に横たわっている。あの液体を飲むと意識が飛ぶようだが、その間何が起きているのかはわからない。ただひどい疲労感と目の痛みが残る。この生活でクキコが唯一嫌なのがこの液体の味だ。おかしなものを飲まされて記憶を失っていることや、目の痛みは気にしていない。それもこの単調な生活の一部だし、多少の損がなければこんな良い暮らしはできるものではないとクキコは思っている。ただし液体の味は今まで口にしたどんなものよりもまずく、昔兄に飲まされた本物の泥水の方がまだしも味が良かったと言えるくらいだった。
クキコはこんな暮らしをどれくらいしているのか、もうわからなくなってしまった。始終寝ているので、時間は頭の中でいっしょくたのぐちゃぐちゃになってしまう。奥様に会ってあの液体を飲んだのが五回くらいか。とするとまだ一月は経っていないだろうか。と考えて見るもよくわからない。ナツは「半年もすれば……」などと言っていたが、まだしばらくは生きてここで暮らせるだろうとクキコは喜んでいる。
クキコは死を恐れていない。神だとか仏だとかもよくわからない。死んだらどうなるかなんてことはクキコの想像できる範囲を超えている。死ねば今の苦痛が終わる、ただそれだけ。家にいた頃、クキコは自死を考えたことがあった。近所の滝に飛び込もうと、何度もそこを見に行った。そんなあるとき、そこに観光に来ていた女の人から人形をもらったのだった。それはおかっぱ頭をした可愛らしい女の子の人形で、黒いワンピースを着ていた。レースのついた凝ったつくりで、ボタンは真珠のよう、白い襟にはキラキラとしたビーズがついていた。クキコはこんなものは初めて見たと思った。自分はこんな服を着たことがないし将来も着られないだろうと思った。
「あなたが悲しそうな顔をしていたから」
と言って、その女の人は白い手でクキコの頭を撫でた。黒地に椿の柄の着物を着た美しい女だった。花の香りがした。
「妹の形見なの。よければもらってくれる?」
クキコは感動のあまり声が出ず、ブンブンと頭を振って、たくさんお辞儀をして走って家に帰った。人形はその日のうちに兄に取り上げられ、裸の状態で川に流された。服は泥まみれになって便所の前に落ちていた。クキコはやっぱり死にたいと思ったが、女の人が大切にしていたであろう人形を失ってしまった罪悪感から、それ以来滝には近づけなくなった。
前に奥様に会ってからしばらく経っている。そろそろ仕事の日が来るだろうと思っていたら、今日は案の定食事を食べても眠くならなかった。白いご飯にハムエッグにサラダという朝食をクキコは堪能した。ここでは簡素な方の献立だが、実家にいた頃と比べてなんとまともな食事がとれていることか。クキコは実家の弟たちのことを考える。食べたい盛りなのにろくに食べられず、いつもお腹を空かせている弟たち。よくクキコの食べ物を奪っていた。弟たちがこれを食べられないのは残念だ。そう思っていると、ナツがやってきた。
「あんたそろそろあの女が見えるようになった?」
あの女とは何だろう。クキコはわからないので黙っている。
「奥様の前で飲まされる薬、あれを何回も飲んでいると黒い女が見えるようになる。あたしは最初から見えてたけど。あれは良くないんだ。見えるようになったら逃げな」
「黒い女」
「うん、10歳くらいだと思う。黒い服を着て、目元に黒いリボンを巻いてるんだ」
クキコは考えてみたが、よくわからないのですぐ考えるのをやめた。昼食のメニューを考える方が楽しい。ナツは再度その女のことを警告し去っていった。
午後、奥様の部屋に入る。甘い香水の香りがする。奥様は紫の上下揃いの洋服を着て無言で座っている。上着についたボタンが光を反射して輝き、クキコは思わずうっとりする。しかしテーブルの上にはいつものカップがあり、味を思い出して嫌な気持ちになる。飲まなければならない。クキコは息を止めていっきにそれを飲み下す。そしてまた目の奥の痛み、体が浮いて分散していくような感覚、肉体の分散とともに曖昧になっていく意識の中、クキコは女の子の姿を見た気がした。闇の中に浮かぶ幾何学模様の向こうから来る、黒と白で構成された少女。白い肌に黒い髪と黒い服、顔を横切る黒いリボンがくっきりと際立っている。気がつくと自室の寝台の上だった。体を起こしたものの、頭がずきずきするのでまた横たわる。これでしばらくはあのまずい液体を飲まないで食べて寝る生活ができる。あの自分の体がばらばらになっていくヴィジョンの中にちらりと見えた白黒の女の子のことを、今度ナツが来たら訊いてみよう。これが例の黒い女だろうか。クキコはそう思いながら、痛みの中に沈んでいった。いつもより痛い。何かが目玉を内側から破裂させようとしているようだ。痛みの波に意識を集中させ、うずくまって耐える。そうしているうちに、クキコはいつしか寝てしまった。
「黒い女が見えたのか。まずいね」
クキコに白黒の少女のことを訊かれたナツは、まずそう言った。
「絶対にあいつに捕まっちゃいけないよ」
頭の中に出てくる人間にどうして捕まるのかとクキコは不思議に思う。ナツの話によると、少女は頭の中でなくこの館の中にいるらしい。どうにもクキコにはその意味が飲み込めない。しかしクキコはそれをうまく言葉にして質問することが出来ず、ナツは薬の入った食事を口にするのをやめろ、なるべく早く逃げろとそればかりを言ってくる。
「あんたが逃げられていないのに、私に逃げられるわけがない」
クキコがそう言うとナツは言葉に詰まる。しばらくむっつり黙っていたが、そのまま帰って行った。ちょうど眠気が強くなってきたので良かったとクキコは思いながら眠りに落ちていく。夢の中に、歪んだ窓とそこから覗く黒と白の少女が見える。おかっぱに切りそろえた黒い髪、白い襟のついた黒いワンピース、目元は別珍の黒いリボンで見えないが、口元はにこやかに笑っている。兄に捨てられてしまった人形のようだ。クキコはナツの忠告とはうらはらに少女に好感を抱く。
また同じ日々が続き、クキコは完全に日にちの感覚を失った。ここに来てどれくらい経ったのかわからない。半年という刻限が近づいているのかいないのかもわからない。目の痛みは強くなり、日中でも視界に輝く幾何学模様が見えてものが見づらくなってきた。あの少女はまずい液体を飲んだときだけでなく、たまに視界の端でワンピースの裾を翻してクキコにその存在を示すようになってきた。館にいるというのはこういうことだったのかとクキコは思う。最近は痛みが酷くて吐いてしまうことがあり、前ほど食事が楽しくなくなった。でも黒と白の少女が見えると、人形が手元に戻ってきたようで嬉しい気持ちになるのだった。
「あんたの後釜が来たみたいだよ」
久しぶりに来たナツがそう言った。
「こうなるとあんたはもう長くない。ヤエと違ってあんたはあたしの言うこと聞いてくれると思ったのに」
ナツは残念そうに言う。ヤエとは誰だろうかと思うが、頭と目が痛くてクキコにはそれ以上考えられない。
「頭が痛い。目が痛い」
だから話しかけないでほしいと思ってクキコは言うが、ナツはずっと窓の向こうで自分の言うことを聞かなかったからと文句を言っている。クキコはイライラとしてしまって、「どっかに行って」と言う。ナツは目と口を大きく開けて驚いたような顔をしたかと思うと、悲鳴をあげて視界から消えた。クキコが格子の隙間から窓の向こうを見ると、地面の上でナツがひょろ長い手足をおかしな方向に曲げて死んでいた。土が赤く染まっている。目をつぶってもう一度見ると、地面の上には何もなかった。土も灰色のままだ。クキコは寝台に戻って眠ることにした。その日からナツが来ることはなくなった。
「もうこの子はだめだね」
キヌタの声がする。クキコの視界には黒と輝く幾何学模様しかない。頭に響くから黙ってほしいと思う。衣擦れの音がして辺りが静かになった。静寂の中横たわっていると、白黒の少女がクキコの顔をのぞき込んだ。クキコにはそれが見えた。少女はにっこりと笑い、目元のリボンを解いた。目があるべきところにはあったのは、おそろしく大きな口だ。口はぱっくり開いてクキコに迫ってくる。その口の中には赤い肉と真っ暗な闇。クキコは人形をくれた女の椿の着物を思い出した。それきり、そこには何もない。