かのこにはいろいろなことがわからなかった。家族にはいつも何かわからないことで怒られていたし、なぜかわからないがクラスの女の子たちには仲間に入れてもらえない。学校の勉強もよくわからず、まるで何かかのこだけ教えてもらえていないルールがあって、それに則って世界が動いているような気がした。かのこが見る世界は、いつもどこかぼんやりしてはっきりしなかった。でもその日、祖父が突然倒れて、何か大変なことが起きたことはわかった。祖父と付き添いの祖母は救急車に乗って、家から出て行った。かのこは放って置かれたので、一人家に残っていた。
祖母は両親に連絡をしていたから、そのうち親たちが家に帰ってくるかもしれないが、今は一人だ。かのこは開放感を覚えていた。今なら家の中で何をしても怒られないし、馬鹿にもされない。厳格な性格で日頃何かと注意ばかりしてくる祖父には親しみを抱いていなかったから、その祖父が病院に運ばれたことは大して気にならなかった。あまり実感もなかった。
ふと襖が開いたままの祖父の部屋を覗き込むと、黒い箱の蓋が開いていた。絶対に触ってはいけないと言われている箱だ。いつもは赤い紐で括られ、札のようなもので封をされているのが、今は紐も札も外れ、ただ蓋が箱に引っかかっている状態だ。かのこは近づいて箱の中をのぞいた。白いふわふわとした丸いものが入っていた。かのこが触ろうと手を伸ばすと、それは向こうから動いて手にまとわりついてきた。かのこはびっくりしたが、嫌な感覚ではなかった。白い毛皮の奥に、生き物の体温が感じられた。白いものはすりすりとかのこに体を擦り付けながら箱を乗り越え、かのこの膝に体を落ち着けた。
かのこは嬉しくなった。これが何かはわからないが、かのこに懐いているように感じられる。普段は猫を触ろうとすればひっかかれ、犬に触ろうとすれば吠え立てられるかのこを好いてくれる生き物がいる。初めて味わった好ましい感覚だった。かのこは箱の蓋を閉め、白いものを両手で抱いて2階の自室に向かった。
ベッドの上に、白いものを優しく置く。かのこが両腕で抱えられるくらいの大きさの、丸いものだ。白い毛が全身に生えていて、撫でるとふわふわした感触がする。膝に乗った時の感じだと、短い足が下の面に何本か生えているようだ。かのこは白いものを撫でた。撫でるたびに喜びを感じる。おだんごという名前にしよう、とかのこは思った。私だけのものにするんだと思った。かのこは気の小さい子どもだったが、この時はなぜか強くそう思った。これが開けてはいけない箱の中身だったことも、なぜか気にならなかった。
家族に見つかったら取り上げられてしまうかもしれない。そう思ったかのこは、ベッドの下の衣装ケースの一部をあけて、そこにおだんごを入れておくことにした。おだんごは外に出されない限り、じっとそこで大人しくしていた。かのこは家に帰ると、毎日部屋に閉じこもっておだんごと遊んだ。レタスをあげてみたら、どこに口があるのかわからないが、下の方でシャクシャクと食べた。それからこっそり冷蔵庫の食べ物を少し持ち出しては与えるようになった。おだんごを見ていると、学校でいじめられていることも、勉強についていけないことも、全てどうでも良くなるのだった。
数週間の入院の末祖父は死んだ。葬儀後、両親と親戚たちは家であの黒い箱を囲んで激しく言い合っていた。かのこには詳しいことはわからなかったが、「中身がない」という声は聞こえた。かのこは心配になった。おだんごのことだろうか。おだんごが見つかって取り上げられてしまうかもしれない。自室で思い悩んでいたら、父親がかのこの部屋に入ってきた。かのこには何も言わずに、タンスの引き出しを外し、棚の中身を放り出し、クローゼットの服をどんどん投げ出していく。「そこをどけ!」父親はかのこをベッドから払い落とすようにどかし、ベッド下の衣装ケースを開けた。かのこは本当に怖かった。おだんごが見つかってしまう。
ところが、父親は何にも気づかないようだった。おだんごはそこに、目の前にいるのに。父親は散々部屋を荒らすと、何も言わずに出て行った。かのこが自室の外を伺うと、母親や親戚たちも他の部屋で同じように何かを探しているようだった。父親にはおだんごは見えないのだろうか。何だかわからなかったが、かのこはほっとした。
散々家を荒らした後、大人たちはまた話し合っていたが、結局は親戚たちは帰っていき、日常が戻ってきた。祖父はもういなかったが、後は以前とほとんど変わりはなかった。いや、少しあった。祖母も両親も、どことなく落ち着かない様子なのだ。いつも何か上の空の感じだ。その分母親がかのこを叱ったりすることも少なくなったので、かのこにはありがたかった。父親には以前からほとんど無視されているので、そこは大して変わらなかった。
やがて、祖母が死んだ。元気で健康な人だったが、祖父が亡くなってから不注意が増え、階段から足を踏み外して呆気なく死んだ。葬式に来た親戚の大人たちはやはりいろいろ言っていたが、祖父の葬儀の時に比べると、勢いは弱々しかった。
祖母の葬儀の翌日から、母親がだんだん弱っていった。本人は何が悪いわけではないというが、食事もろくに食べなくなった。父親が病院に連れて行ったが、薬も飲もうとしない。とうとうある日、母は首を吊った。
またしても葬式だ。親戚の大人たちはボソボソと力なく話し合うだけだ。かのこは様子を伺った。「小動物くらいの、黒いものらしいんだ。見つからないのか」叔父の一人が言った。「何度も探した。そんなものはない」父親が答えた。父の目の下には濃いクマができていた。
最近、かのこはおだんごを抱いて寝ている。ふわふわして、暖かくて、とても良い気持ちになれるのだ。家に何があっても大丈夫。ここにはおだんごがいるのだから。かのこは幸せな気持ちで目を閉じた。