2024/04/30

mochimochi3
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「流れるまんま 流されたら 抗おうか 美しい鰭で 壊れる夜もあったけれど 自分でいられるように」。ラジオから流れてきたこのフレーズにわたしだけ取り残されて、歌はどんどん進んでゆく。

今日新卒で入った会社を退職した。在籍は1年1ヶ月ではあったけれど、休職を3ヶ月したので実際に会社に行ったのは10ヶ月といったところだろうか。労働環境でずっと悩んでいて、それでも朝になれば足が勝手に会社に向いていた。これが社会かとも思ったり、そうではない生き方をしている先輩のことを知っていたのでわたしの働き方だけを見て「これが社会」と決めつけているわけではなかった。定期的にその先輩が連絡をくれていたので、働き方も生き方もたくさんあることを頭のタンスの中にしまっていた。そして経済活動だけが社会参加ではないと今ではなんとなく思う。就職して働くことだけが社会人とは思わない。フレームなんて壊していかなきゃね。

辞める報告を一番お世話になった同期12人になかなかできず、(報告できる体力が無かったり)ずっと連絡を取り合っていた同期数人には個人的に伝えたのだけれど、グループで退職当日の今日報告をした。ほんとうにみんながだいすき。全員が頻繁に集まることは少なかったけれど、だいたい集まるときはお好み焼きか中華を食べていた。ほとんどみんな違う部署に配属されたので、だんだん愚痴の内容も人それぞれ、退勤時間もそれぞれ。誰かがいつ辞めてもおかしくない感じもあった。みんな違う種類のあったかい毛布を持っていて、わりとみんなぼろぼろなのにわたしにかけてくれた毛布はとっても温かかったです。きれいで高い毛布は頑張って買うことができるけれど、その毛布を自分ではないだれかに掛けることは誰にでもできることではないでしょう。ゆっくり無理しないでたのしんで。応援しているよ。と連絡をくれたあなたが、いつでも会いに行くと言ってくれたあなたが、辞めるという選択をして安心していると言葉をかけてくれたあなたが、さみしいよと言ってくれたあなたが、ケーキを食べてねと連絡してくれたあなたが、今日も会社で歯を食いしばって、笑顔をまとって働いているみんながもし泣くときがあるならば、わたしはあたたかい毛布を持ってかけてあげられる人でいたい。きっとそれがわたしのひとつの道しるべになる。

仕事を辞めるということは大きな選択なのだろうか。わたしにはあまりぴんとこない。大きく生活の風向きを変えたなあとは思う。そう、流されたら抗えばいい。美しい鰭があったことを、毛布を掛けてもらったことを、重い荷物を手放したときに気づくことがある。潔いさみしさである。

わたしたちの前にはだだっぴろい未来があり、ひとつの選択が大きく思えるときもある。それはわたしの中にある映画みたいなもの。実際はただ生活があるだけだ。これからどんな生活を組み立てていくのだろうか。いまはとてもすがすがしく、自分のままでいられるような気がしている。