小説『ここはすべての夜明けまえ』

mo
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公開:2025/11/2

間宮改衣によるSF小説『ここはすべての夜明けまえ』第11 回ハヤカワSF コンテスト特別賞を受賞した作品。

愛とは何か、家族とは何か。

血縁とは呪縛であり、生まれる場所も時代も種族も肉体も選べないものである。

人は生まれたままの肉体を、環境を享受し、生きるために選択を続けることしかできない。選択肢は多いようでいて、自由なようであって、そんなことは決してないのだと、そんなことをまざまざと考えさせられるような話だった。

4人兄妹の末っ子である主人公は、25歳で脳以外の肉体を捨てて機械となる融合手術を受ける。物語は主人公が融合手術を受けてから101年後、肉親が全員死んでしまった後に、やることがなくなってしまったから家族史をつける、というところから始まる。

終始主人公視点で家族のことを語る物語で、基本的には主人公と父親、最大18歳年の離れた兄妹たちと、恋人だったシンちゃんとの思い出が綴られていく。

生まれつき身体が弱く、主人公を産んだことにより母親が死んでしまったことから兄妹からは疎まれ、父親は自身に母親の影を見ているような状況。物心がついた頃には兄妹たちは全員家から出ていて、父親と二人暮らしの中で希死念慮を抱いた主人公は、安楽死を望む。けれど、父親の説得により融合手術を受けることになり、機械の体となって生き続ける、という物語だ。主人公視点でやや淡々と語られているからか悲壮感は薄いものの、主人公に起きている出来事はかなり悲惨だ。愛着障害と近親姦は特に暴力的なものだと思う。希死念慮を抱いた主人公に対して、泣きながら包丁を突きつけて心中を図る父親の構図はあまりにも恐ろしい。父親がなんとか融合手術を受けさせようと手を回すのに、結局機械の身体になった途端に主人公を化け物として扱うのも性愛の果てという印象があって、ひどく生々しく感じて嫌だった。

そのうちに、一番年の近い姉が父親の分からない子供を妊娠したことで、家族関係は変化し、シングルマザーとして忙しくする姉の代わりに主人公が甥であるシンちゃんの面倒を見ることが増えるようになる。そうして、大人になったシンちゃんに告白され、添い遂げるまでの話が語られていく。

シンちゃんは主人公が機械の身体であることも理解した上で恋をし、共にいる。キスをして抱きしめ合うだけで満足だというかたわらで、高校生時代の同級生を都合の良い女としてキープし、性欲を発散していた。それを主人公が知った時に、主人公が一言も責めていないのに泣き縋る姿がとても印象的だった。主人公が、その時点までシンちゃんに対して向ける愛情が恋人としてのそれでないと気づいていなかったことも相まって、よりグロテスクに感じたのもある。

そして、主人公がシンちゃんが自分に愛着をもつように、愛を懐くように仕向けたと自覚していて、それもまたグロテスクだなと感じた。愛着障害の果てであり、近親の再生産である、と。けれどそれは結局、性愛ではなく父性、あるいはそれ以外の愛情を求めた子供の起こしたことなのだとも。

選択肢さえも、本人の意思であるのかどうかも分からない。導かれたようにそうなってしまうこと、そうなることさえも生まれたときから定められ、あるいはそのように誘導されているのかもしれない。それはきっと、本人も他人も、誰も分からない、分かりようのないものだと思う。それこそが人の運命であり、人生であるというのなら、たしかにそうなのかもしれない。

「じんせいでたったひとつでいいから、わたしはまちがってなかったっておもうことがしたいんです」

受動的で、流されるままに愛を受け取り、愛を与え、あるいは愛を向けられるように誘導して生きてきた主人公のこの言葉を、ずっと考えている。

間違っているとは、果たして何に対してなのか。主人公がシンちゃんに対して行ったこと、それは決して間違いと呼べるようなものではない。たしかに間違えているとすれば、拒絶すべきをしなかった、その点だけだと思う。間違いなく、その部分においては彼女は加害者となった。

ずっと被害者として搾取されてきて、悍ましい大人として見ていて、あのようにはなりたくないと感じていた父親。自分を腫れ物扱いする兄妹。腫れ物扱いの側に回った姉がいなければ、望まれなかった子供がいなければ、きっと主人公はずっと孤立していたのだと思う。

終始主人公の視点でのみ描かれる物語は、きっと認知の歪みもあっただろうし、主人公の思考や受け取り方には幼い面もあった。

幼い自分であることが望まれ、そのように振る舞うことでのみ生存を獲得していた弱い個体だったことも相まって、それは彼女の生存戦略だったのだろうとも思う。それはきっと誰にも責められないもので、そんな彼女が自分よりも弱く、世話をする対象となったシンちゃんを、自分がされてきたように扱ってしまうのも、また仕方のないことだとも思う。

シンちゃんが年を取った時に、恋人ではなく娘のように振る舞うこともあったというのも印象的だった。主人公はずっと幼いことを求められていて、幼くあることが愛される条件だったのだろうな、とも。自覚的であることがより歪であり、けれど本人がそれを良しとするのならそれで良いのだとも思う。

虐待の再生産、愛着障害の果て、と切って捨ててしまうのは簡単だけど、そんな風に切り捨てるような話でもないと感じている。少なくとも、自分は。

近親という題材を扱うにあたって、最終的に『加害者が悪であった。被害者は悪くない』とすることは簡単で。あれは愛の物語であったし、この二人の関係性は美しくて違うものであると肯定し人間讃歌とすることは簡単だと思う。

ただ、この作品は近親という題材に真っ向から向き合って、主人公はちゃんとそれを「罪」であると認めている。ただ、それが果たして「罪」であるのかは分からない。本人の中ではそうなのだとは思うけれど。

もちろん、社会的に肯定されるものでは決してない。現実世界においては絶対悪だ。ただ、あの世界において、あの環境において、主人公の状況において、あの行為が全て絶対的な「悪」であったのか、「罪」であったのかと問われると、難しい。

シンちゃんの人生において、主人公は「人生」であったと伝えられているし、間違いなくその在り方は彼にとっての救いであったのだと思う。主人公の感覚だけがずっとそうでなかったとしても、愛情に包まれていることを幸福と感じていて、同じもので返せなくとも肯定しているのなら、そこに第三者が口を挟むようなことはなにもないとも思う。だからこそ、主人公の自罰感情に少し驚きもした。

愛着の果て、愛とはなにか、家族とはなにか。血縁、性愛、環境、要因。色々なことを考えさせられる話だった。

けれど、主人公が最後までその記憶を手放すことを選ばずに、自身のしたことを「見つめる」と言って旅立ったことは、希望にも見えた。「向き合う」ではなく「見つめる」と言っていたのも、そのように再定義して伝えていたことも印象深い。

「向き合う」ことと「見つめる」ことは違う。彼女の中で向き合い続けていたから、ただ、その行為としてきたことを、ずっと見つめて生きてくのだろう。思い出を抱えるようなものであり、傷を眺めるようなものであるとも思う。けれど、どこか祝福めいた響きと、強さがあって不思議な読後感がある。

きっと、年齢が変わったらまた受け取る印象も変わるのだろうな。そんなことを思う一冊だった。

@mochimochi_ya
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