「Gone Girl」という映画を見た。紹介してくれた人は「妻が常軌を逸したサイコパスだ」と言っていたが、わたしはそうは思わなかった。
わたしはこの映画を「ロールプレイを求める妻と、結婚後にロールプレイを放棄するようになった夫」の話だと思った。
確かに妻は常軌を逸して夫に執着しているが、そのようなドラマチックな部分を除けば、夫婦関係によくあるトラブルの話に思える。
(ややニュアンスが違うが雑に言えば)「釣った魚に餌をあげない」夫と、幼い頃から過剰なロールプレイを求められる中で自他の境界にトラブルを抱えてしまった妻の関係の話だと思う。
妻は、子供の頃から「完璧」を親に求められてきたので、美しく見えない本心を隠している。しかし、夫にだけは醜い本心(本性)を見せたいとも思っている。だから「完璧」な人間として完全犯罪にせず、最後に夫と無理やり殺人の詳細を共有する。
夫は、理解できない行動をとるスノッブな妻の前でロールプレイをやめてしまう。そして「若い頃モテた」ロールを簡単に落とせそうな教え子の前で披露し、手軽な浮気に走る。夫が心を許して本音を話すのは、ロールプレイをせずにすむ双子の妹の前だけだ。
「ありのままの自分を他人に愛してもらおうというのは傲慢」と言っていたのは美輪明宏さんだったか?
ありのままの自分を晒すということは、兄弟か母子のような関係になることだ。しかし夫婦は兄弟でも母子でもではない。恋人同士の時はそれがはっきりしているのだが、なぜか夫婦になると兄弟か母子のような関係を求めるようになる人がいる。
兄弟か母子に等しいくらい親しい関係を他人と築くことができたらそれは人生の僥倖だろう。幸せだと思うべきだ。しかし、他者との間でそれを維持しようとは思わない方がいい。
人はどれだけ親しい人に対しても自分の全ての面を見せることはできないものだ。例えば、妻が女子会で話す会話(不妊治療や卵子凍結に関する切実な感想)を夫に共有しようとしても、もともとの生理が異なるのだから、徒労に終わることが多い。人は「分人」的に、その場その人に応じて自分のある一面だけを見せている。
人にはなかなか見せられない面を夫婦の間では見せる、というのは心温まる話だが、「そもそも人に見せるべきでないどろどろ・ぐだぐだ・自分でも醜いと思う面」を夫婦の間で共有し、その上で恋人同士としてのロールプレイをやめると、夫婦間で共有される分人はまるでゴミ箱の中身のようになってしまう。家族であっても、ゴミ箱の中身のような人間性を愛せるだろうか。愛されるのは幼児のうちだけだろう。
人に見せられないような一面は自分の心の中にとっておき、夫婦であろうと家族であろうと一線を越えたつきあいにはしない。妻・夫であり恋人であり良き友人であるという、楽しいロールプレイをする。
どうしても心のうちにとどめられないものがあるならば、対価を払って専門家に相談する。
これが大人の「君子の交わり」ではないだろうか。