杉崎泰一郎著『修道院の歴史』の一部を要約し、勉強しています。
4世紀頃から、砂漠など人里離れた場所で祈ることだけに熱中する「隠修士」が増えていきます。そのなかから、修道士の始祖であるアントニオスが出てきます。
アントニオスは250年頃エジプト中部の町コマで生まれました。実家はキリスト教徒の高貴な家柄だったそうです(でも初等教育は受けていません。ローマ帝国の子女は父により初等教育を施されるのですが、両親が早くに他界したせいだったのでしょうか……)。しかし、両親が早くに他界してしまってから人生は一変、様々なことがあったようで、両親から相続した土地を貧しい人に分け与え、妹を他人に預けて、隠遁生活を送ることになります。アントニオスは隠遁生活の中で修行を重ねました。この修行過程のことを、「聖アントニオスの誘惑」という刺激的な題で、様々な画家が描いています。修行を終えたのか、20年後、アントニオスはいきなり隠遁生活を一旦やめ、病や苦しみに打ちひしがれた人たちを救いました。そして、隠遁生活に戻った後も、病に苦しむ人への治療、説教、争い事のアフターフォローなどを行いました。
さて、推し事関連でいえば、「異教の哲学者」について、無学を軽蔑していたと本書が述べているのが気になります。アントニウスは無学を軽蔑する彼らに、「精神が健全であり、本来的なあり方をしているかぎり、文字を必要とするものではない」と述べています。ユリアヌスを中心とした「異教の哲学者」の情報を集めるものとしては、初耳で、慎重な検討が必要と考えています。(一方で、ユリアヌスやリバニオスなどの哲学者やソフィストのやや傲慢にも見える態度から、いかにもありえそう、と考えたり)
後で取り上げたいけど難しい『ペルペトゥアの殉教』によれば、教育は家父長制が敷かれる中、もっぱら父親が行いました。女の子は一生そうでした。男の子はある程度の歳になると、親を離れ、哲学者に諸事を習いに行きます。どういう風に学んでいたかというと、アウグスティヌスの『告白』を参照すれば、子供は好きな教師の元へ行き、講義を聞いて金を渡す仕組みであったようです。でも払わなかったり逃げたりする学生が結構いたとかw
言い換えれば、教育の機会を失うこと、無学になることなどはローマ社会において誰にでも起き得たことでした。それを見下してしまった(かどうかは慎重な検討が必要ですが)「異教の哲学者」こと非キリスト教の哲学者は、政治を左右できるエリート層でもあり、「無学になる」ということがどういうことかわからなかった可能性もあります。ここら辺は掘っていきたいですね。
さて、話を戻すと、アントニオスはぼっち修道士でしたが、パコミオスという人物が、共同生活を送って修道生活を極めようと考えます。320年頃のことです。やはりエジプトのタベネンシというところで修道生活を始めました。ローマ時代のエジプトはアレクサンドリアもあるし、こういう修道士発祥の地でもあるし、面白いものです。
その後、「カエサレアのバシレイオス」という人物が修道生活の規則を作りはじめるのですが、彼は超重要人物です。また次の機会にメモをしていきます。