勉強のため、杉崎泰一郎先生の『修道院の歴史』の一部を要約してメモしています。
ヨーロッパにおいて、修道院は大きな役割を果たしてきました。
別に修道士は「酩酊しちゃダメ」とされるだけで飲酒自体は禁じられてませんでした。ワインがキリストの血に擬せられているので、礼拝(ミサ、奉神礼)では、普通に飲酒をします。だから、飲酒自体を禁じてしまうとミサができなくなるのです。それで、食事の際の飲酒もしていました。確かに新約聖書でもイエスと弟子たちが普通に楽しく飲み食いしているので、禁じることは難しかったのかもしれません。……で、禁じられても世界を広げるのに、禁じられないと無限に世界を広げるのが人間のさがというもの。ある修道会ではビールの生産を行い、ある修道会ではリキュールを作っているそうです。シャンパンの「ドンペリ」というのは、ドン・ペリニョンという修道僧が生み出したとか。また、こういったお酒をお菓子や料理などに使用することもあります。食文化において、修道院は実は大きな影響力を持っていました。
また、中世の修道士は祈りの合間に写本制作を行なっていました。聖書だけではなく、古代の教父たち(キリスト教神学を確立した2〜5世紀の偉い神学者たち)の書物も写本していました。さらに、いま日本で伝わっちゃっている話(中世ヨーロッパにおいてキリスト教の影響下、ギリシア・ローマ古典は破壊された)と真逆なのですが、ギリシア・ローマ古典を継承するため、キケロなどの古典文学をも写本していました。確かに、古代の教父たちの本をちょっと読んでいて思うのが、ギリシア・ローマ古典の理解が必須だということです。古代の教父たちは知的エリート層であり、ラテン語もギリシア語も自在に操ることができ、古典文学に造詣が深く、ギリシア・ローマの哲学者の系譜に連なる存在でもありました。アウグスティヌスの『告白』では、アウグスティヌスがギリシア語には苦労したからギリシア文学が嫌い! ラテン語も苦手!! と言いつつも、自然とホメロスを引用し、ウェルギリウスを引用し、キケロを読んでいます。「自分自身をあわれまずに、アエネアスにたいする恋ゆえのディドの死を悼み、それにもかかわらず神よ、(以下熱い語りが続くので略)(アウグスティヌス『告白 Ⅰ』山田晶訳)」とかいきなり出てきます。だから、修道士の皆さん的には「どういうことだよ!」と自然とホメロスやウェルギリウスなどなどを写本せざるを得なくなったということなのかなあ?
全然話はズレますが、アウグスティヌスはシメるところはしっかりシメるけど、昔はブイブイ言わせてたし、世慣れしすぎているし、教父のくせに(在俗時代に未婚の状態で作った)息子がいるので、CVは杉田智和の印象があります。
教育分野でも、サレジオ修道会やイエズス会、フランシスコ修道会やドミニコ会などがどかどか学校を建て、様々な人材を出しているそうです。日本にもあると思います。
というわけで、修道院の社会貢献についてメモったところで次の関心ごと、修道院の成立について、別のページでメモっていきます。