それは頭のなかでどうしても消えない光景だった。かつてあらゆる「自然」を支配していた人間は、すでにこの世界の主人公であることから退き、ただ世界をながめ、調整するだけの存在となっている。主人をうしなったアンドロイドは、水に沈んできらきらと反射する廃墟や、無為に点滅する信号機を、ただみつめて暮らしている。たとえ人間は消えても、水面は陽のひかりにきらめき、かざみどりは風にはためく。おもえば、こんなにあたりまえのことはないというほど、あたりまえのことなのに。
そこでは、人びとは気配だけの存在となっている。丘をひとつ登り、向かいに同じくらいの高さの丘がみえる。その裾に小綺麗な住宅街が広がってゆく。そういう場所をみるとき、なぜだかいつもこうおもう。この先ずっと、あの街へ行くことはないだろう。湖の岸辺にひとり立ち、対岸の街をみつめるときと同じように。
大学生のころ、高度成長の時期につくられた複合型の商業施設がすぐそこにあった。その施設はニュータウンの中核に建てられ、コロッセオを模したつくりをしていた。当時ゆたかさを追い求める人びとをさらに活気づけていたであろうその場所は、私が暮らしはじめたころにはすでに、準廃墟といった佇まいだった。その場所はもはや、自らの役目を終えていた。そこへ行くといつも、とおい未来、完全な廃墟と化したその時点から、「いまこのとき」をみつめ返しているような、ふしぎな感覚がした。
廃墟のあいだを風が通りすぎてゆく。そうして、ざわめきのようにあいまいなものになった人の声。そこでは過去の声も、未来の声も聞こえるような気がする。それはもしかしたら、自分が安心するひととの距離であるのかもしれない。疫病などで、人間という生命体だけが消えていった地球では、それでも人間が作った建物などはのこる。無機的な存在から、けれど伝わる息づかい。
ここで崩壊を生き残るのは強い者であり、私はその過程に知らないふりをしている。そののんびりとした風景をみるのはどんな人たちなのか。わたしはその風景を夢みていいのだろうか。「先進国」とされる国たちが、そうでない国たちに押しつけてきたものをおもうと、物語上でも一足飛びに遠い未来へ「退却」してもよいのかわからなくなる。それでもなお、どうしようもなく、私は遠い地球の姿にあこがれる。
うつのとき、とてもおだやかな希死念慮を感じる。それは「死」というよりも、消滅への願望なのだろうとおもう。けれど私はごく平凡に、親しい人たちを悲しませたくないともおもう。だから「この世に一度はあったもの」としてではなく、「はじめから無かったもの」としてーー自己無化の果てに、自然と一体になりたいとおもっていた。社会的な存在としては消えてゆきながら、そうでない存在としては、やはりただそこにありたかった。
私は人が好きだった。人付き合いの少なさは、その裏返しのようなものだった。いつまでも、人びとや、人びとによって「自然」と呼ばれるものとをながめていたいという気持ちがあった。そうしたすべてのものをただそこにあって見守る、一本の大きな樹になりたかった。あるいは雲のような存在になって、異国で暮らす友人のもとへひとつのためらいもなく行ってみたかった。彼らをただみつめる、守護霊のようになりたかった。