なにもかもわからないのが、つらかった。でも、明るいエネルギーはまたもどってきてくれた。正確には、人からそれをもらったのだった。はずかしくて口にできなかった気持ちを拾ってもらい、心が変化していった。
なにもかもがわからず、時期が近づくにつれ、そのわからない現実というのが重みとうす暗さを帯びてきた。私には、絶対にゆずれないものというのがない。ぼんやりとした希望はあっても、それは決して絶対的なものじゃない。だからか、自分にたいして「そんなことで大丈夫?」という気持ちがあった気がする。いまはちょっと元気だから、そういうのもありかな、とおもえる。でも、ここひと月、そうだとおもえた日はなかった。なにもしたくなくなってしまい、そのことにすらなかなか気づけなかった。
そもそも、なんにもやりたくない。そのことをふまえて、その「べつにやりたくないこと」を順に並べてみたら、やっぱり気になることは気になることとして、ほかのいろんなことの上のほうにある気がした。ついでにいえば、「なにもやりたくない」というのも、私にはありだとおもえた。それはなんだかすごいことにもおもえるけれど、きっとそうだとおもった。だれかにすすめられるかはべつとして、この世界のなかで、そうであってもいいとおもった。
ぼーっとだれかの描いた絵を眺めていたら、絵のために経験を増やしてみるのもいいなとおもった。勉強するのはぜんぜんべつのことでも、自分のなかでひそかに「絵のため」とおもっている。そういう秘密をもってみる。あたらしい世界をみたら、もっといい絵が描けるようになるかもしれない。いい絵というのもなんだかわからないけれど、少なくとも、それは楽しいことなんじゃないだろうか。絵のことならそんなふうにおもえるし、いろんなことを明るい場所へもっていけるような気がした。
とりあえず、大丈夫なんだとおもうことにした。