田中美津の「わかってもらおうと思うは乞食の心」ということばについて考えていた。好きなフェミニストは誰かと訊かれたら、かならず田中美津の名前を挙げると思う。けれど、このことばだけはなぜか心のどこかでひっかかったまま、ずっと呑み込むことができないでいた。
ひとつは、おそらくよくないことの比喩として、「乞食」という表現を選んでいること。もうひとつはーーこちらの気持ちのほうが大きいが「わかってもらおう」とすることを「他人に期待すること」と読みかえたとき、それを「乞食の心」と切り捨てることに積極的には頷くことができなかった。
そのことを友人に話したら、「あれは当事者の視点を尊重するということになるのではないか」と言われた。そうかもしれない、とおもった。
痛みについて語るとき、そもそも話を聞く気がない相手に「お願いだから、聞いてください」と言う必要はないのじゃないか。あるいはそれすら内面化して、「わかってもらえるよう語らねばならない」とおもう必要もない。田中美津は、わざわざ許しを乞うようなその態度のことを「乞食の心」と言っているのではないか。他人の論理を推しはかりながら語るのではなく、ただ語ること、自分じしんのことばで語りはじめるということをおもった。
相手の反応を先回りするコミュニケーションは、相手を気遣うことにもなるだろうが、その存在を想定内のものにしてしまうという意味で、どこかに傲慢さを含んでいる気がする。そしてそのむこうに、きらわれたくないという臆病さがたぶんある。臆病なわたしは「臆病なのは、だめなのか?」と折にふれてつきつけられている気もするのだった。