
08 そして、レジェンドの誕生
メガスパを出た私は、また、散歩の続きを楽しむ。
元来た道を背にあと少しだけ離れよう。
そして、普段通らない道を探検してみようと思った、その時、思いがけず背後から声がかかる。
きっと走って追いかけて来たんだろう、少し高揚気味に息が上がった感じで。。
「すみません、お客様! お待ちくださ〜ぃ」
息を切らせて走ってきたのは、さっきレジでパニックになっていた新人パートの女性だった。
トラブルの最中はうつむき加減でよく分からなかったが、正面から見ると目鼻立ちがスッキリとした、ハッとするほど美しい顔立ちをしている。
呼び止められた(と思った)私は、にわかに心拍数が上がり、やや緊張気味に言葉を返そうとした。
「えっと、どうされ……」
しかし、彼女の視線は私を完全に通り過ぎていた。
彼女は私の横を疾風のように擦り抜け、さらに前を歩いていた背の高い若い男性の元へ、一直線に駆けて行ってしまったのだ。
「あの! これ、お財布の忘れ物です……っ!」
……なるほど。完全に私は肩透かし、盛大なる勘違いである。
少しの気恥ずかしさと苦笑いを噛み締めながら、私は首のタオルで汗を拭い、スマートウォッチに目を落とした。目標歩数まではあと少し。私は気を取り直して、普段通らない未知の路地へと力強く歩き出した。
まさか、自分のすぐ後ろで、一つの「奇跡のような人生の物語」が動き出したことなど、知る由もなくだ。
出会いと、隠された覚悟
あの日、財布を届けられた青年――透(とおる)は、生まれつき体が弱く、その日も体調を崩しかけながら、ふらふらとメガスパに立ち寄っただけだった。
財布を握りしめ、息を切らしながらひたむきに微笑む新人パートの美咲(みさき)。その一瞬の出会いが、二人の運命を強く結びつけることになる。
何度か店で顔を合わせるうちに言葉を交わすようになり、二人は自然と惹かれ合っていった。
しかし、透の体は思うように動かない日が多く、就職しても長続きしない現実に、彼は未来を諦めかけていた。
「僕と一緒にいても、苦労させるだけだよ」
俯く透の手を、美咲はぎゅっと強く握りしめた。あの日、レジ前でお爺さんに助けられ、自分の無力さに涙した美咲は、もうあの頃の弱い自分ではなかった。
「私が、あなたを支える。だから、諦めないで」
美咲は心に誓った。彼が安心して家で体を休められるように、自分がこの手で、確固たる生活の基盤を作ってみせる、と。
伝説への挑戦:ミツコとヨシコの猛特訓
それからの美咲の努力は、メガスパの歴史に語り継がれるほど凄まじいものだった。
彼女が門を叩いたのは、あの日に圧倒的な背中を見せつけられた、レジ界の二大巨頭――「スキャンの女王」ミツコと、「カウンターの魔法使い」ヨシコの仕事場だった。
「ミツコ先輩、ヨシコ先輩! 私に、本当のレジの技術を教えてください!」
頭を深く下げる美咲に、二人のレジェンドは不敵な笑みを浮かべた。
「いいわ。でも、私たちの特訓は並大抵の覚悟じゃ耐えられないわよ?」
翌日から、地獄の猛特訓が始まった。
ミツコからは、商品のバーコードを一瞬で見抜く動体視力と、手首のスナップだけで1分間に100品を捌く「神速のスキャンテクニック」を叩き込まれた。
来る日も来る日も、閉店後の店内で空の買い物カゴを相手に、腕が上がらなくなるまでスキャンを繰り返した。
ヨシコからは、客の細かな表情や声のトーンから瞬時にニーズを察知する「究極の観察眼」と、どんなクレーマーをも笑顔に変える「魔法の接客心理学」を学んだ。あのヤンチャなお兄ちゃんのような客が来ても、一歩も引かない精神的な強さもこの時に培われた。
何度も挫けそうになった。
しかし、美咲の脳裏にはいつも、家で自分の帰りを待つ、少し顔色の悪い、けれど誰よりも優しい透の笑顔があった。
「私は、絶対にレジェンドになる」
レジェンドの誕生
数年後。
メガスパ・団地前店のレジカウンターには、かつて震えていた新人パートの姿はなかった。
そこにいたのは、目にも留まらぬ速さで商品を捌きながら、地域のお年寄りたちとまるでお茶飲み友達のように親しく会話を交わす、新しい「伝説のレジ担当」――美咲だった。
彼女のレジには毎日、長蛇の列ができた。他のレジが空いていても、客たちは「美咲さんのレジを通ると、なんだか元気がもらえるから」と、嬉しそうに列に並ぶのだ。
かつて彼女を鍛え上げたミツコとヨシコも、今では遠くから彼女の背中を見つめ、満足そうに頷き合っていた。
「あの子、もう私たちを超えたかもしれないわね」
美咲の努力は実を結び、彼女はパートから異例の速さで正社員へと登用され、チーフとしてレジ部門を統括するまでになった。
そして、小さな奇跡のつづき
さらに数年の月日が流れた。
体調を考慮しながら、在宅での翻訳やデザインの仕事を見つけた透と、メガスパの頼れるレジェンドとなった美咲は、ささやかだけれど誰もが羨むほど幸せな結婚式を挙げた。
透の体調が良い日には、二人で手を繋ぎ、あのメガスパの裏手に広がる運動公園をのんびりと散歩するのが、夫婦の何よりの宝物の時間になっていた。
「あの時、僕が財布を落とさなかったら、今の幸せはなかったんだね」
「ううん、勘違いして振り返った男の人を擦り抜けて、あなたのところまで私が走っていったからよ」
二人はそう言って、クスクスと笑い合う。
あの日のメガスパ前のドタバタ劇は、神様が二人に授けた、最高の悪戯(いたずら)だったのかもしれない。
……そんな映画のような未来が待っているとも知らず。
私は、朝の高揚した空気の中を、一人ジャージ姿で歩いていた。
スマートウォッチが「ピピッ」と小気味よい音を立てて、目標の1万歩達成を知らせてくれる。
「よし、今日もいい汗をかいたな」
私は自販機で冷たいお茶を買い、我が家の屋根が見えるいつもの坂道を、軽やかな足取りで登っていくのだった。