
09 雨の日の確かな絆
メガスパを後にしてしばらく歩くと、いよいよ我が家のある団地へと続く、いつもの長い坂道が目の前に立ちはだかった。
「ふぅ……よし、もうひと踏ん張りだな」
首のタオルで汗を拭い、私は覚悟を決めて坂に足をかける。すでに1万歩近くを歩いてきた足には、この緩やかで長い傾斜が地味に堪える。ふくらはぎをパンパンに張らせながら、ヒーヒーと荒い息を吐いて一歩一歩登っていく。
その時、背後から軽快なエンジン音が近づいてきた。
――ツィーーッ。
真っ赤なカブに乗った郵便屋さんが、私の横を軽やかに追い越していく。荷台にたくさんの街の便りを載せて、坂道など微塵も苦にしない様子でスイスイと登っていく後ろ姿が、たまらなく羨ましい。
「いいなぁ、原付……」と心の中で恨めしく思いながら、私は重い足を前に進めた。
しかし、頑張ってようやく坂を登り切ったところで、妙な光景が目に飛び込んできた。
さっき私を追い越していったはずの郵便屋さんが、坂の上の路肩にバイクを止め、困り果てた顔で立ち往生しているのだ。どうやら、タイミング悪くバイクが故障してしまったらしい。シートをあけたり、あちこち触ったりしているが、一向にエンジンがかかる気配はなかった。
「ありゃ、大変だな……」
声をかけようか迷ったその時、どこからともなく、あの「ヤンチャなお兄ちゃん」がふらりと現れた。スーパーの前で買ったばかりのパック肉をぶちまけていた、あのスウェット姿の彼だ。
また何かトラブルでも起こすのかと、私は一瞬身構えた。
だが、お兄ちゃんは郵便屋さんの前に立つと、ぶっきらぼうにポケットから手を抜き、驚くほど手際よくバイクのエンジン付近を覗き込み始めたのだ。
「……ちょっと見せてみな」
お兄ちゃんは慣れた手つきでプラグの具合を確かめ、どこかを軽く調整した。すると、さっきまで沈黙していたカブが、「ドルルン!」と一発で小気味よいエンジン音を蘇らせた。
「おぉっ! すげえ、助かったよ!」
郵便屋さんが顔を輝かせてお礼を言うと、お兄ちゃんは「別に」とだけ言って、またスウェットのポケットに手を突っ込んで歩き去っていく。
私はその様子を遠目に見ながら、「へぇ、見た目はヤンチャだけど、あんなに親切な一面があるんだな」と感心し、彼らの横を通り過ぎた。
しかし――私が知らないだけで、彼らが交わした視線の温かさには、もっと深い理由があったのだ。
【舞台裏のエピソード】二人の知られざる絆
実は、この郵便屋さんとお兄ちゃんが顔を合わせるのは、これが初めてではなかった。
お兄ちゃんがまだ今よりもっと尖っていて、周囲を睨みつけるようにして団地を歩いていた、少し前のこと。彼はある事情から深く傷つき、自暴自棄になっていた時期があった。
そんなある雨の日、お兄ちゃんはこの坂道の途中で、激しい雨に打たれながらポツンと座り込んでいた。誰もが「関わらないようにしよう」と遠巻きに避けて通り過ぎるなか、ただ一人、バイクを止めて駆け寄ったのが、この郵便屋さんだったのだ。
「おい、大丈夫か? 風邪ひくぞ。何があったかは聞かないけどさ、これ、使いなよ」
郵便屋さんは、自分が配達用に持っていた予備のタオルを無理やりお兄ちゃんに握らせ、温かい缶コーヒーを一本、缶のプルタブを開けて手渡した。
「生きてりゃ、雨に降られる日もあるって。次はきっと晴れるさ」
ただそれだけ言って、郵便屋さんはまた雨の中を仕事へと戻っていった。
差し出されたコーヒーの温もりと、ずぶ濡れになりながら自分を気遣ってくれた郵便屋さんの言葉。それが、世界に背を向けていたお兄ちゃんの凍りついた心を、どれほど救ったことだろう。
それ以来、お兄ちゃんにとってあの郵便屋さんは、この街で唯一「信じられる大人」になった。
お兄ちゃんが少しずつ前を向き、得意な機械いじりの知識を活かして、いつかバイクの整備士になる夢を密かに持ち始めたのも、あの雨の日の出会いがあったからだった。
だからこそ、今日、恩人が困っている姿を見たお兄ちゃんは、放っておけずに体が勝手に動いたのだ。
「いつも、ありがとな」
「……あぁ」
言葉は少なくても、二人の間には、あの雨の日から続く確かな絆と、お互いを思いやる温かい風が、確かに流れていたのだった。