
01 凄腕スパイと天使のトランペット-妄想散歩-
梅雨の晴れ間の爽やかな朝、私はいつものように柔軟剤の香りをまとって歩き出す。スマートウォッチをセットし、静かな団地を我が物顔で進み、あの古い路地へ。
4軒目の家の前で、オレンジ色の大きなラッパ状の花(キダチチョウセンアサガオ:通称エンゼルトランペット)に水をやる90歳の間近のお爺さん。
「おはようございます!」
私の元気な声に、お爺さんはいつものようにボソボソと「おはよう……」とだけ返す。しかし、私の足音が通り過ぎたその瞬間、お爺さんはさっきまで見せなかった鋭い眼光で、じっと初夏の青空を見上げた――。
その脳裏に去来していたのは、半世紀以上前、東欧の冷たい霧の中に消えた、ある「極秘任務(ミッション)」の記憶だった。
忘却の庭の『エンジェル・トランペット』
1970年代、冷戦下の東欧。
若き日のお爺さん――コードネーム『スワロウ』は、敵国の秘密軍事基地に潜入し、機密マイクロフィルムを奪取する任務に就いていた。
しかし、内通者の裏切りにより、作戦は失敗。スワロウは頑強な敵兵に囲まれ、拘束されてしまう。連行されたのは、人里離れた古城を改造した尋問施設。容赦のない自白強要が始まった。
「吐け、スワロウ。組織の潜伏先はどこだ」
両手を椅子に縛り付けられ、満身創痍のスワロウ。尋問官の冷酷な声が響く。絶体絶命。だが、スワロウの目は死んでいなかった。彼は、尋問室の古びた窓越しに、中庭に咲き誇る「ある花」を見逃していなかったのだ。
美しくも不気味に、下を向いて垂れ下がる巨大なオレンジ色のラッパ。
現地では「悪魔のトランペット」とも呼ばれる有毒植物――ダチュラだった。
(……勝機は、あの花の中にしか残されていない)
スワロウは、拘束される前にあらかじめ奥歯の裏に仕込んでいた、極小のワイヤーを舌先で器用に引き出した。
その日の夜。見張りの兵士が居眠りを始めた一瞬の隙を突き、スワロウはわずか数秒で手錠と椅子の縄を解く。音もなく立ち上がると、窓から猫のように中庭へと飛び降りた。
彼が向かったのは、暗闇に浮かぶダチュラの大株。
スワロウは慣れた手つきでその肉厚な葉を数枚むしり取り、さらに成熟した実の殻を破って、中の種子を鋭い爪で削り、ポケットへと忍ばせた。
「おい! 侵入者が逃げたぞ!」
背後で警報が鳴り響く。
スワロウは逃走ルートを塞がれ、厨房へと追い詰められた。すぐそこまで敵兵の足音が迫る。
スワロウは瞬時に判断した。調理台の上に置かれていた、兵士たちの夜食用スープの巨大な鍋。彼はポケットからダチュラの葉の搾り汁と、細かく砕いた種子をそのスープの中にすべて投げ入れ、一気にかき混ぜた。そして、自らは天井のダクトへと身を隠した。
「どこへ行った? ……おい、あいつはまだこのエリアにいるはずだ。夜食を食ったら、すぐに見回りを強化するぞ」
ドカドカと厨房に入ってきた5人の追っ手たち。彼らは空腹に耐えかね、何も知らずにそのスープを口にした。
数分後。ダチュラの「悪魔の旋律」が、静かに、しかし強烈に回り始める。
「……おい、なんだ、急に喉が渇いて……」
一人の兵士が首をかきむしった。彼の瞳孔は完全に開ききり、焦点を失っている。
「ま、眩しい……ライトを消せ! なんだあの光は!」
別の兵士が、何もない壁に向かって銃を構えた。
「出た! 悪魔だ! 天井から巨大な蜘蛛が降りてくるぞ!」
ヒヨスチアミンとスコポラミン――脳の中枢を狂わせる強力な幻覚成分が、兵士たちの精神を完全に破壊していた。彼らには、目の前の空間が地獄の絵図に見えているのだ。
「うわあああ!」
錯乱した兵士たちは、ありもしない「幻影」に向かって引き金を引き、お互いを敵と勘違いして殴り合いを始めた。厨房は一瞬にして、阿鼻叫喚のパニックに陥る。
ダクトからその様子を見下ろしていたスワロウは、音もなく床に着地した。
狂乱し、床をのたうち回る敵兵たちの間を、彼は一瞥(いちべつ)もくれることなく通り抜ける。狂気の幻覚に囚われた彼らにとって、目の前を通り過ぎるスワロウの姿すら、現実のものとは認識できていなかった。
スワロウは正面突破で悠々と施設を脱出し、東欧の闇へと消え去ったのだった。
「……」
お爺さんはゆっくりと視線を空から下ろし、手元のオレンジ色の花に目をやった。
かつて自分の命を救い、敵を地獄に突き落とした悪魔のトランペット。
今では、この平和な団地の一角で、ただ静かに、初夏の風に揺れている。
無事逃げ出した凄腕のスパイの面影は、今のお爺さんにはない。腰は曲がり、じょうろを持つ手はわずかに震えている。
「ふふっ」
背後で私の足音が遠ざかるのを聞きながら、お爺さんの口元が、ほんの少しだけ悪戯っぽく歪んだ。今日も美しいダチュラは、この庭で何も知らずに咲き誇っている。
私はそんな大冒険の想像を膨らませ、スマートウォッチの歩数を確認しながら、また一歩、夏の陽気の中へと歩みを進めていった。