
03 メッセージ-妄想散歩-
池の遊歩道から脇に逸れると団地の外になる。
なだらかな斜面に身を任せて大人げなくふらふらと駆け足をしながら向かう先は旧道の少し長いトンネルだ。と言っても100mぐらいだが、車一台がやっと通れる細いトンネルで、時折、回覧に「痴漢と幽霊にご注意」みたいな知らせが入っていたりする。
「幽霊は1人、2人と数えるのか、それとも1匹、2匹なのか……」
そんな他愛もない疑問を頭の片隅に浮かべながら、私はひんやりとしたトンネルに最初の一歩を踏み込んだ。中は思いのほか暗く、外のじっとりとした暑さが嘘のように涼しい風が通り抜けていく。
あたりを見回すと、見事なまでに誰もいない。車が通る気配すらない。
この完璧な静寂と、どこか不気味な空間が、私のなかの「男の子」の心をくすぐった。大人になるにつれて恥ずかしくてできなくなった、あの懐かしい遊びをやってみたくてたまらなくなったのだ。
私は大きく息を吸い込み、思い切り声を張り上げた。
「おーーーーーい!!」
声はコンクリートの壁にぶつかり、幾重にも重なって奥へと響いていく。
「おーい……おーい……おーい……」
自分の声が何倍にもなって返ってくるのが面白くて、私はまるで子供に戻ったようにニヤニヤしながら、もう一度叫んでみた。
「誰かいるかーーーーー!!」
「いるかーー……いるかーー……(ミーーーーーン・ミンミンミンミン……)」
「……え?」
私は思わず足を止めた。
自分の声の残響が消えかけるその最後の波間に、確かに、はっきりと別の音が混ざり合っていた。
(ミーーーーーン・ミンミンミンミン……)
それは、紛れもない蝉の鳴き声だった。
いや、しかし、いくらなんでも早すぎる。まだ梅雨の晴れ間だ。本格的な夏が来るにはまだ何週間もある。
不思議に思って耳を澄ましてみたが、聞こえたのはさっきの一度きりで、トンネル内は再び風の音だけに戻っていた。
「はは、いくらなんでも早起きすぎる蝉がいたもんだな。今年も猛暑らしいから、せっかちなやつがフライングしたのかもな」
私は自分の空耳か、あるいは風の悪戯だろうと無理やり納得させ、クスッと笑いながら光の差し込むトンネルの出口へと歩みを進めた。
――だが、私が「早起きの蝉」だと笑って通り過ぎたその声は、実は生きている蝉の声ではなかった。
それは、遥か長い年月を暗く冷たい土の中で過ごし、ようやく這い出た地上で、わずか数週間という短い命を燃やし尽くして散っていった「去年の蝉たち」が遺した、目に見えないメッセージの残響だったのだ。
人間にはただの(ミーーーン)という羽音にしか聞こえないその響き。しかし、トンネルのひんやりとした暗闇がスピーカーの役割を果たし、彼らが次世代へ向けて遺した「言葉」を、ほんの一瞬だけ私の声に共鳴させたのだ。
まだ土の中で、外の世界を知らずに眠っている未来の子供たちへ向けて、去年の蝉たちはこんな言葉を紡ぎ、トンネルの風に託していた。
「暗闇のなかにいる小さき者たちよ、恐れるな。
誰もいないと思ってしまうかもしれない。この暗い土の中が世界のすべてだと思ってしまうかもしれない。
だけど、信じて待つんだ。
やがて君たちの背中に立派な羽が広がるその時、上を向いて進みなさい。
トンネルを抜けたその先には、目も眩むような青い空と、世界を黄金色に染める太陽の光が待っている。
私たちの命は短く、儚い。
だけど、あの光の下で思いきり声を張り上げて歌う夏の時間は、何よりも美しく、何よりも愛おしい。
恐れずに出ておいで。
私たちが愛したきらめく夏を、今度は君たちが受け取る番だ」
そんな命のバトンとも言える壮大なメッセージが、あの短い響きのなかに込められていたことなど、私は知る由もない。
トンネルを抜けると、目の前にはどこまでも青々とした、広大な田園風景がパッと広がった。
「うわ、眩しいな」
私は目を細めながら、スマートウォッチの歩数を確認する。液晶に表示された数字を見つめながら、これから訪れるであろう本格的な夏の暑さに思いを馳せ、私は再びのどかな一本道を歩き始めた。