社会人四年目の夏の終わり、インフルエンザに罹った。コロナかと思い、急いで午後休を取って病院に行ったら、「あー、インフルエンザですね」と言われた。ほっとしたような、なんとも言えない気持ちになった。
幸い食欲はあったので、うどんやりんごを食べ、ダラダラと熱の夢うつつを彷徨いながら、これまでのインフルエンザに罹った時のことを思い出していた。
僕はインフルエンザによく罹る。初めてかかったのは確か小学二年生くらいだったように思う。春の選抜甲子園の真っ最中で、僕は実家の三階の和室に布団を敷いて、今じゃ考えられないような1メートルは厚みがありそうな分厚いブラウン管のテレビで、高校野球を見ていた。
その時に、なんとなく初戦から応援していた静岡代表の常葉菊川高校が、あれよあれよという間に勝ち上がり、最後に大垣日大に勝って優勝した。僕は常葉菊川ファンになったと同時に、高校野球ファンになった。
今じゃ高校生は年下の子供だが、いつも少し年上のお兄さんが戦っているような感覚に陥るのは、おそらく僕だけではあるまい。
小学校の頃にもう一回インフルエンザに罹ったことがあるが、いまいちいつなのか記憶が定かではない。覚えていることは、その時から部屋の襖の模様が変な怪獣の顔の形に見え始めてしまったこと、父が急いでポカリを買ってきてくれたこと、買ってきたポカリの量が少ないと母が父を怒っていたこと、くらいだ。
追加でもう一つ、僕は熱がまだあるのに、なぜかタラコパスタを食べたいと言って、母が作ってくれたこともあった。でも結局僕は一口か二口食べて気持ち悪くなってしまい、満足に食べることができなかった。タラコパスタを見ると、その時の申し訳ない気持ちと、母の優しさを思い出している。
その次に罹ったのは、高校生の頃だ。
金曜日の一限は音楽の授業だった。同じ部活だった仲の良い友達の左隣で一緒に歌っていたら、そいつが二限には死にそうな顔で家に帰った。
月曜日の朝、僕は熱が出たので病院に行ったら、インフルエンザだった。
僕にインフルエンザをうつしたであろう友達の右隣で合唱をしていた友人は、ケロッとした顔で、「俺はならなかったよ」と言っていた。なんだか自分だけが損をしたようで、悔しい気持ちになった。
僕が高校生の時に学校を休んだのは、このインフルエンザによる4日間だけだった。
その後大学生の時にも、冬の野外フェスに行ってインフルエンザもらい、大晦日に熱を発症し、祖母の実家の金沢で寝込んだ。幸い祖母にはうつらなかったものの、家族みんなが紅白を見たりおせちを食べている時に、一人でベッドの上にいるというのはなんだか寂しかったことを覚えている。
今日、社会人になって初めてインフルエンザに罹った。正直、昔よりもしんどくない上に食欲もある、会社も休めるで、頭はぼーっとしつつもどこか楽しい気持ちもあった。会社の人は優しい言葉をかけてくれるし、同棲している彼女も一生懸命看病してくれる。頭に貼ってもらった冷えピタと氷枕の冷たさを感じながら、いつまでも昼寝をする。夏の終わりの気温と空気がとても気持ち良い。
幸せだった。死ぬ時もこんな感じならいいのにな、と思った。
この二十六年間を三十八度の熱がある脳みそで振り返って見ると、僕の人生は結構右肩上がりに来ていると思う。言い過ぎかもしれないが、それはまるで、選抜優勝を成し遂げた常葉菊川高校のように。
例えインフルエンザに罹っても、大人になった僕ならば、これまでのように乗り越えていける。
しかしふと、僕は一抹の不安を覚える。順風満帆の時こそ、急な落とし穴が待っているというものだ。杞憂なら良いが、僕は何かを忘れてしまっているような気がする。
まあ良いかと思い、僕はまた昼寝に戻ることにする。
熱にうなされているのか、僕は嫌な夢を見た。
これまで積み上げていたものが全てなくなり、大切な人にも愛想を尽かされ、一人になる夢だ。
汗をかきながら目を覚まして、僕は忘れていたことを思い出す。
選抜優勝を果たした常葉菊川高校は、次の夏でもベスト4に進出し、満を辞して翌年の夏の甲子園に出場する。すっかり常葉菊川ファンになっていた小学生の僕は、毎日のように常葉菊川をテレビの前で応援する。
昨年の選抜優勝の時のように、あれよあれよと競合を逆転で打ち負かし、決勝に進出した常葉菊川は、決勝で大阪桐蔭と合間見える。
結果は、0-17。甲子園決勝の中でも歴史に残る、大敗だった。
どうして忘れていたのだろうか、あの惨敗を。
気がついたら、僕は布団から出るのが、怖くなっていた。
仕事の通知がスマホに届いても、僕はもう、それを見たくないと思った。
熱がもう下がっているにも関わらず、僕はずっと、布団の中で縮こまっていた。