バルコニーの扉が開け放たれた瞬間、割れんばかりの歓声が上がる。彼はその身に寄せられる熱気に気圧されることもなく、悠然とした態度で一歩前に踏み出した。繊細な彫刻の施された手摺に左手を掛けると、熱の籠もった彼らの視線に応えるように、ふわりとその頬を綻ばせる。自らの真下に集う群衆一人ひとりに、希望の光をもたらしてゆく。
美しい。
きっと、この微笑を目にした人間、否、生きとし生けるものは皆、この讃辞で心が埋め尽くされてしまうことだろう。
白磁器を想起させる滑らかな肌に、絹糸のような白銀の髪。そして、見る者の魂まで吸い込んでしまいそうなほど澄んだ輝きを放つ蒼玉の双眼――。神から与えられたとしか思えない美貌を持つ彼には、見る者すべてを虜にしてしまうような、圧倒的な存在感があった。
「――。」
人々の耳を心地良く撫で上げる、柔らかなテノールの声音。その声だけで、人々はより一層心を高鳴らせるに違いない。それだけでなく、彼の所作はまるで夢のように優雅で流麗で、とうに見慣れているはずの自分までもが思わず溜息を漏らすほどだった。
"金星"
国民は皆、口を揃えて彼をそう呼んだ。夜空に無数に散らばる星々の中で、何時いかなる時でも最も強い輝きを放つ一等星。そんな金星を背後から観測することが許されるのは、ごく限られた人間のみだった。その星屑のひとつが、王子直属の従者である、私という存在だ。
決して裕福とは言えない小国である我が国において、彼が持つ光は国民の拠り所であり、まさに希望そのものである。しかし、私は、私だけは。彼の輝きが、自らが放つ光ではなく、恒星がもたらす光をただ跳ね返しているだけに過ぎないことを知っていた。
確かに、彼は誰よりも美しく輝いている。しかし、それは決して、彼が自らの力で手に入れたものではない。この世に生まれ落ちた時に偶然持たされただけの、王子という重い肩書。身分という恒星の輝きが、彼を一等星たらしめているのである。
王子は紛れもなく素晴らしい人物だった。国中の民を愛し、慈しみ、必要とあらば自らを犠牲にしてまでも守ろうとする、慈悲深い人格者。しかし、もし彼の見た目をした貧しい乞食が、彼のように美しく清らかな心を持っていたとしても、誰もそちらを見ようとはしないだろう。
ある月の晩、彼はその蒼石に涙を浮かべながら、その身に宿す苦しみを訴えかけてきた。伸し掛かる重圧が、国民を照らし導く、金星としての義務が。その全てが苦痛だと嘆いていた。それでも、王子として生まれた運命から逃れることはできない。その事実に身を焼かれ続けることが、どうしようもなく恐ろしいのだ、と。
私は指先でその雫を優しく掬い取ると、我が主君の前に跪き、安心させるように微笑んでみせた。――ならば、せめて私に対してだけは、その背に降りかかる影をお見せください。私が、貴方様を支えます。だからどうか、もう苦しまないで。
彼は目を見張り、人形のように整った唇を綻ばせた。私の肩を抱き寄せ、ありがとう、と囁いたのだ。
バルコニーの扉が閉じられ、彼が部屋に戻ってくる。私は彼の傍に駆け寄ると、すっかりと青褪めてしまった彼の表情を見やり、その手を取った。指先が微かに震えている。大丈夫ですか、と声を掛ければ、彼は力ない微笑みをこちらに向けた。
――美しい。
この世でたった一人、私にだけ向けられる特別な御顔。地上で這い蹲り、届かぬ光に手を伸ばし続ける哀れな民草には決して掴むことの叶わない星芒が、そこにはあった。
ああ、星のような君。貴方の運命は、誰よりも輝く惑星で在り続けること。
それは決して幸福なことではないでしょう。けれど、それこそが、貴方が生まれ落ちた意味なのです。
誰もが羨む地位を手に入れ、富も名誉もある恵まれた環境に生まれ落ちながらも、貴方の心は満たされていない。その瞳の奥深くでは、いつも孤独と不安が渦巻いている。
憔悴しきった彼の頬に、あの日と同じ雫が伝う。私はそれをそっと唇で吸い取り、そのまま静かに口付けを落とした。胸が高鳴る。頭の天辺から足の爪先まで、言い表せない充足感で埋められていく。
我が君よ、どうかこのまま、どうしようもなく金星で在り続けて下さい。その御身の内に巣喰う暗闇を覆い隠し、人々を導く光となって下さい。
私という星屑の、生きる意味で在り続けてください。