愛の極地

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「例えば君が……自分とは異なる人間を、他人をうっかり愛してしまったとしよう。僕はここで一つ問いたい。その愛の終着点とは、何だと思う? とね。

 果たして、愛というものは何を為せば完成するのだろうか。人間は、やれ結婚だの心中だのと言って、愛情に一定の区切りをつけたがる生き物だが、結婚や心中をすれば、彼らの愛の物語は完結するのかな?

 かのフランスの詩人、ボードレールなんかは「結婚は人生の墓場」なんて言葉を残したそうだね。

 しかし、結婚なんてものは口約束、もしくは書面上の形式的な契約でしかない。言うなれば、社会の規範、ルールみたいなものの一部だ。愛という概念的なものに当てはめるのは極めてナンセンスだと思わないかい。

 そこで、僕はある仮説を立てた。愛しあう人間同士が本能的に求める行為――そこに、この問いのヒントが隠されているのではないか、と。

 そう、人間に限らず、生きとし生けるものは自分たちの種を存続させるべく、子孫を残そうとするだろう。僕はその行為に注目したのさ……おや、怪訝そうな表情に変わったね。まあ、まあ。もう少しだけ付き合っておくれ。

 要するに、性行為こそが愛の完成形を再現した行為なのではないかと思うわけだよ……恐らくそういった事柄にはあまり触れてこなかった君のために生々しい表現は避けるが、性行為には、相手と一体化することで脳内麻薬の分泌を促し、短絡的に快楽を、幸福感を得るという一面もある。神が愛を素晴らしいものであると流布するためには、種の存続と幸福感、この二点を大々的に押し出す他なかったのだろう。

 しかし、それはあくまで一時的なものだ。人間同士が四六時中性行為を続けることは絶対的に不可能であるし、事が終われば脳の興奮状態も収まるように出来ている。

 思考の連鎖がこの辺りまで至った時、僕は僕に再び問いかけた。愛の完成形とは何だ?

 自らの仮説に従い、相手と文字通り"一体化"することを究極の愛と定義するのであれば。

 ――愛を完成させるには、或いは食人、カニバリズムしか遣り口がないのかもしれない、とね。

 まあ、人間の細胞は3年でその全てが入れ替わるというし、その完成形の愛を享受できるのも、限られた時間のみなのだが。

 だが、決して子供騙しというわけではない。本当の意味で相手と一つになれる、唯一無二の方法だ。そして、それが僕の答えでもある。

 ああ、済まない。どうにも自分の世界に入り込んでしまう癖があって。それで、君の話なのだけれど……。おや、もう聞こえていないみたいだね。

 元来、僕は化学調味料や添加物の類をあまり好まないのだけれど、今回ばかりは妥協の道を選んだよ。我慢とか遠慮とか、自己を犠牲にする選択を敢えて取る気になったのも、一重に君を愛してしまった所以だろうね。

 惜しむらくは、この行為によって完成される愛は、相互的なものではなく、一方的なものであるということだ。勿論、君はきっと理解してくれると信じて疑わなかったが、これはあくまで僕の仮説に過ぎない。証明は不可能だし、僕がそれを君に押し付けるのは酷だろうからね。

 願わくは、この愛が君にとって毒となりませんよう。そして、この身が朽ち果てるまで、とは言えないが、僕の細胞が全て入れ替わってしまうまでは、君と共に在らんことを――」

 ありがとう。ご馳走様でした。

@monyorinco
気まぐれに短文を書き散らしています。