私は常々「生きる意味とは」を考える。
でもいつも答えは出なくて、webで検索すれば考えるだけ無駄と言った回答だけが突きつけられる。それで結局、暇だからこんなこと考えてしまうのかなとか、生きていく上でそれは必要のない考えなんだと思ってまた心の奥にしまいこむ。
果たして、生きる意味を考えることは無駄で意味のないことなのだろうか。そうだとしたら何故、私はそんなふうに考えてしまうんだろう。
人間とは動物の一種であるけれど、大きく発達した脳のおかげで思考やコミュニケーションができるようになり、文明を発達させていった。発展途上や戦時下などは別として、この豊かすぎる状況の中思考停止状態で「生きるために生きている」なんて言ったら、人間として生きている意味があるのだろうかとさえ思ってしまう。
そんなある日、この本に出会った。なんとも怪しげな自己啓発本といった印象だったけれど、冒頭を試し読みした時、ここに私がずっと探している答えへのヒントが載っていると直感した。
著者は精神科医として、多くの患者を独自の精神療法で導いてきたそうだ。本の中では世界中の精神科医や作家、芸術家などの引用を用いて、現代人が多く抱える「生きる意味が感じられない」という現象について解説している。
結論としては、「日常に遊びを取り戻す」「量より質を重視する」といった話だ。ここでいう「遊び」とは、感情的な働きの「心=身体」が感じ取った感覚と、理性的な働きをする「頭」とが対立せず協働し、様々な好奇心や活動につながる状態のことを指す。また、コスパやタイパといった言葉に代表されるように、今は無駄なものは切り捨てて効率良く生きることが、正しさとして私たちを支配している。しかし、効率を極めた先に待つのは「すぐに役に立つもの」や「親しみやすいもの」だけに傾斜した「思考停止した受動的な人間」である。だから目の前のことに丁寧に、深く向き合おうということだ。
著者は生きる意味がわからないという患者の多くは、「手段」と「目的」がすり替わっているとも話している。(本の中では「意味」と「意義」で解説されている。)お金を稼ぐための仕事を生きがいの軸としてしまうと、仕事をすること=生きる意味になってしまう。だから自分に合った仕事探しをすることで、自分探しやひいては生きる意味が見出せると思ってしまうのだ。しかし、仕事はあくまで生きていく上での手段のひとつにすぎない。
生きる意味とは、本当に正解と呼べるものはないだろう。人によっても違う。ただ、「何者かになる」必要性を探ったりするのではなく、「心=身体」の向くままに気軽に何かをやってみることが重要だ。遠くを見据えすぎている現代の私たちにとって、疎かになっている目の前のことを楽しむことこそが、生きる意味のヒントにつながっているのではないだろうか。
この本を読んでいて、引用や例えが難しすぎる箇所もいくつかあって、時間が経ってからまた読み返そうかなと思ったり。でも哲学は難しすぎる学問だと思っていた私の考えは大きく変わった。私が生まれるはるか昔の先人たちが、そんな思考の境地に達していたのかと驚くばかりだ。
2024年はもう4月も終わろうとしているが、自分の心の赴くままに好きなことをやっていきたいなと思う。