一ヵ月、本を読みながら生活している守宮の様子をお届けします。
ばたばたしているうちに7月も半ばを過ぎ、ムシムシの暑さがやってまいりました。遅くなりましたが、6月の読書日記をお送りします。ボリュームたっぷり、30日間の記録です。
月刊読書日記(6/1-6/30)
6月1日
ビッグイシューを手に入れた。買っている人を見かけてから、ずっと憧れていたので嬉しい。特集が紙の本とデジタルの本だった。読み分ける、ということを考えたことがなかったので、なるほどなと思った。
夏目漱石『こころ』に、卒論に苦しむ人間が出てきておもしろく読んだ。うまくいかない人間が悩んでいるのを読むのがすごく好きだ。どのあたりが好きなんだろう。人間が悩んで思考している形跡、をたどるのが好きなのかもしれない。
ということで今月の読書日記では、私自身の思考の形跡を残してみた。日々の積み重ねが現在(6月25日)の私を作っていることが知れておもしろいな……。
6月2日
読書日記を書いたり、本を読んだり、ごろごろだらだらしていた。夜に映画『万引き家族』を見る。"血のつながりのない家族のような関係性"が好きなので、うわーっとなってぼろぼろ泣いた。よかったな……。よかった。
6月3日
夫が本を読み上げながら読んでいて、受動的に読書をしているような気持ちになる。谷川嘉浩『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』というタイトルなのだが、「衝動」と聞くとBzの歌を思い出してしまう。なんか、あったよな……。
ドラマを見ていたら、結婚式のシーンがあった。「幸せにします」という新郎のセリフに、夫がツッコミを入れていた。曰く、「その人の幸せはその人が決めるものだから、「大切にします」くらいがいいんじゃない?」とのことだった。確かにそうだ、と思って頷く。
6月4日
おすすめされた東野圭吾『祈りの幕が下りる時』を一気読みする。朝ごはんを食べながら1ページ開いてみたら、読み始めてしまった。やるせなさは感じ取れたが、いまいち入り込めなかった。心情描写が少なめだったからだろうか。苦しくなりきれないまま、雑務をこなし、ドラマを見て、寝た。
6月5日
休日にたくさん本を読んだので、一人モードが切れていない気がする。もっと読みたいという気持ちを抑え、昨夜読んだ『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』のことを思い返す。「セルフインタビュー」ってもしかして私が日々やっていることだろうか。調子がいいときや悪いとき、一つの感情が強く現れてくるときなどに、何を思って何を感じているかを書くようにしている。心の内面を掘り出しては、きっかけや原因を探る行為は、やっておかないと心が安まらなくなっている。なぜかわからないものはとりあえず書き出しておいて、長い間放置しておくこともある。考えてもしょうがないことを頭の中に置いておきたくない、という思いのもとに行っているのだが、こう、「Howto」のように書かれると不思議な感じがする。私の常識は他者の常識ではない、ということを改めて感じながら興味深く読んだ。
6月6日
エンタメ小説が苦手な理由を考えている。映画やアニメでは見られるので、もしかすると読書で感じたいことと合っていないのかもしれない。たぶん、本を読むときは、深いところに一人で浸りたいという気持ちが強いのだろう。重いテーマはひたすら重く、軽いテーマは思い切りよく軽くあってほしい。私の中に一定のバランスがあって、そこから外れた作品はうまいこと楽しめないのかも、と思った。
6月7日
コミティアに行く。随分と久しぶりなので、熱量に圧倒されてしまう。台湾から来たのだろう人たちを案内したり(ゆりかもめは「百合線」となっていて読み取るのに手間取った。駅の案内表示に中国語がないのはなぜだろう……)、周囲の早足についていったりして、到着したときには少し疲れを感じていた。慌てるような時間でもないのに、心が急いてしまってよくない。でも、創作をしている人々や読みたい気持ちに溢れている人々の空気に触れることができてよかった。
行く前は創作できていないくせに、となんとなく引け目を感じてしまっていたのだが、手紙を渡したり話を聞いたりして心が少し楽になった気がする。人に紹介されて、作り手以外の肩書きがあることを思い出した。それでいいんだ、とほっとする。"創作"に依存しない関係も大切だと改めて思った。
オフの場ではできるだけ手紙を渡すようにしている。準備している時間が楽しいので、私に合っているのだろう。思った以上に喜ばれて嬉しい。
夫が焼いたフォカッチャ(チーズのせ)をつまみにして、アペロールを飲んだ。この組み合わせが最近のマイブームになっている。
6月8日
衝動を生活に取り込むのが苦手、という話を夫にしたら、知り合いの話を教えてくれた。外食の待ち時間中、紙ナプキンに漫画を描いていたらしい。そういう人もいるんだなと思ってちょっと安心した。もう少し衝動に任せる時間を増やしてもいいかもしれない。
『こころ』は、本当に人間の心についての話だったな、と思う。深いところまで自己分析ができる冷静さと、猪突猛進な盲目さを併せ持つ人間の性をまざまざと描き出している。こういう、意識の奥深くを掘り起こすような作品が一番好きかもしれない。読めば読むほど、独りになっていく。
6月9日
土形亜理『みずうみの満ちるまで』を読み始める。とっても気が進まないことを終えてぐったり。むしゃくしゃした気持ちになって、微分を教わる系の動画を見ていた。微分と言われてもなんのこっちゃだったのだが、説明されてそういうことか~と思った。なんとなく知れてよかった。
ネガティブな気持ちが強くなると、創作意欲が出てくるようだ。ストレス発散みたいなものなのかしらん。夜にスイッチが入るとついつい寝る時間が遅くなってしまうので気をつけよう。19~20時に何をしているかで、すみやかに眠れるか夜更かしするかが決まってきそう。風呂は早めに入ってしまうのがいい。
6月10日
TRPGキャラクターのことを考えたり、長編の人間関係を書き留めたりしていた。やっぱり三角関係が好きらしい。おもしろくなってきたな。
6月11日
たくさん寝て元気だったので、いろいろやる。TRPGキャラクターの過去話を書き終えた。
桃ってなんで"もも"なんだろう。"とう"は中国由来なんだろうけど、"もも"がどこから来たのかふと気になった。
多和田葉子『言葉と歩く日記』に「もし人間のだれでもレガステニーがあるなら、それは病気ではなく、言語を文字で記すことが根本的に人間には困難だ、ということにならないか。」とあって、その可能性もあるかもなあと思っていた。言葉は無意識に覚えてしまえるが、文字は書く練習をしないと身につかない。文字は後付けの道具であるから、使うのが難しいんじゃないかと思う。世界には言葉にできないものの、文字にできないものもたくさんあるだろう。
6月12日
雨に濡れてびっしゃびしゃになった。一周まわっておもしろい。大きなカツ丼を買ってもりもり食べた。多かったので夜も食べた。
6月13日
安部公房の作品が好きな人に、おすすめを教えてもらう。多分好きだろうと思っているのに読めていないので、ありがたく参考にさせてもらおう。
『世界』2026年6月号をぱらぱら読む。戦争をしないことと、独立を保つことを両立する術はないものだろうか、と考える。
『みずうみの満ちるまで』を読み終わった。絶望の中に生きる人々はとても静かだ。けれど、それは声を上げてもどうにもならないという諦念が強いからだ。もうどうしようもない、という未来はいつか訪れるかもしれない。そのときまでどう生きていくか、が大切なのかもしれない。私は、言葉や国を越えた視点を持っていたい、と思った。
6月14日
東京新聞の「筆洗」に『言葉と歩く日記』が取り上げられていて驚く。夫に、今読んでる本だと伝える。
寝る前に『文藝』2022年秋号を読み始める。
6月15日
ワールドカップの日本・チュニジア戦を見る。チュニジアという国のことをよく知らなかったのだが、アルジェリアとモロッコのあいだにある国で、かなりヨーロッパに近い。チュニジアのアラベスク模様の建物を見たりした。サッカー自体にはあまり興味はないが、地理を知るきっかけになっていて楽しい。
仮眠をとり、午後はごろごろ本を読む。楊双子『台湾漫遊鉄道のふたり』がおもしろい。台湾に滞在していたときのことを思い出した。知らない材料でできた美味しいものをたくさん食べたな。
6月16日
『言葉と歩く日記』に興味深いことが書かれていた。
ある表現が頻繁に使われると、その表現は身体から離れていく。そんな時は、ずらすしかない。
多和田葉子『言葉と歩く日記』p.92
正しい日本語を使わねば、と思っていた私は衝撃を受けた。ずらしていいんだ……! もっと自由に書けるのでは、と希望を持った。
1月から続いていたTRPGが終わる。終わった、終わってしまった……。後日気づいたが、私は終わってからでないとテンションが上がらないタイプらしく、逆に言えば終わることが一種のトリガーになっているようだ。思いついた場面をがっと書いてぐうと寝た。
6月17日
昨夜、上げ上げのテンションのまま寝たせいで眠りが浅かったらしく目がしょぼしょぼしている。へろへろと昨日の続きを書き留めておく。
たまたま見かけた人の名が読んでいる本に出てきてびっくりした。そういうこともある。
6月18日
ずっと眠い。夢の中で起きているみたいだ。
わからないようでわかる言葉、伝えるための言葉ではなく、伝わる言葉、感情や感覚を想起させる言葉。正しく伝わらなくてもいい、そのためのフィクションで噓。
みたいなことを考えていた。あと、興味深いnote記事(下記参照)を読んで、私の小説はどうだろう、と考えていた。
感情の仮託先としては、言動。人間は、言うこと言わないこと、やることやらないこと、すべてに感情が表れていると思っている。ずっと「黄昏型」だと思っていたけれど、「夜明け型」かもしれないと気づいた。「おわりからはじまりへ」続く物語を書いているときが一番楽しいし、迷いがない。思い返してみると、書き直したプロットも手癖でそういう感じになっていた。これがテーマというものなのか……?
一貫したテーマがない、という悩みが消えてよかった。私自身に見えていないだけだったのかもしれない。
夜、2日前に書いたものを書き直す。矛盾を洗って見えるところまで書く。『言葉と歩く日記』にあった、「表現をずらす」をやってみる。楽しくなって気づくと2時間くらい経っていた。小説を書くって、こういうことか……と思った。
6月19日
昨夜感じたことを夫に話すと、「書き始めて何年目?」と不思議そうに言われた。無意識に手癖で書くことと、理解した上でわざと感覚に任せて書くことはまるで違う、ということをうまく言えなくてもどかしかった。何かが違っているんだけれども、何が違っているかは言葉にできない。
できる時とできない時がある運任せな書き方から、どうすればどのようにできるかを知っているから使いどころを調整する書き方になったという感じだろうか。感じたことに言葉を沿わせて調整していく、というのが私の小説の書き方なんだろうと思う。なんとなく言葉にしてみたが、伝わっている気がしない。ようやく見つけられて嬉しいが、本当にこれでいいのかはもう1作ぐらい書いてみないとわからないなと思う。
そして、私にとっての「一次創作」は「現実」の二次創作みたいなものかもしれない、とも思った。「二次創作」は、既存の作品世界の二次創作である。じゃあ「一次創作」は? と考えたのがきっかけだ。「一次創作」ないし読書日記を通して、「現実を語り直し」ている。現実の見方を変えることでさらに思考を深めているのではないか。私は、文字世界で思考実験をしたいのかもしれない。小説の最後をメモしておく。
6月20日
1週間の疲れがどっときてものすごく眠い。いろいろやっているうちにどんどん時間が過ぎていく。
小説が書き上がった。予期していなかった最後を見届けて仮眠。起きてからは、感想を書いたりTRPGをしたり。しゃべりまくっていい感じに疲れたため、ぐっすり眠る。
6月21日
健康的な生活と小説を書くことを両立したい! 私の場合は、書き始めると止まらなくなってしまい、睡眠と食事が削られていく。「生活 創作 両立」と検索すると、多くは「忙しさの合間にどれだけ創作できる時間を作るか」という悩みへの答えが示されている。違うんだ、どうやったら止められるかを知りたいんだ、と思いながら毎日創作について検索している。夜に書くのがよくないんだろうな、と薄々気づいているのだが、まとまってとれる時間がそこしかないときもあり、悩ましい。
「絵を描くのが上手になると絵を描く時間が長くなる」みたいな言説がXで噂されていた。「過程をショートカットすることで短くできる」みたいな反論も見かけた。小説の場合、ショートカットできる部分はあまりないかもな、と考えていた。ただ、今回は脳内で考えている時間が長かったからか、「書いている最中に手が止まる」ということが少なかった気がする。工夫すれば机に向かっている時間は少なくできるかもしれないな。
なんとか感想を書き上げ、小説と共にお披露目。書いている最中はお腹が空かないのに、書き終えた途端ものすごくお腹が空くのはなぜだろう。日記も書かずに寝た。
6月22日
シナリオを書いている友人はしっかりプロットを作っているらしい。ハウツー本にはたいてい載っているプロット、意味があるのか? と思っていた。なぜなら私はプロットに沿ったものを書けた例しがないから。「地図」にたとえられることが多いが、実際の道ですら地図なしでぐるぐる歩いきながら覚えるタイプの私にプロットは必要なのか。そもそもプロットは「地図」ではないかもしれないと思い至った。
前述したように、私は終わることが創作意欲のきっかけとなる。プロットを絵で言う「ラフ」ととらえれば、一度終わったことになるのではないかと考えた。終わりを積み重ねることで、思考を深め、小説ができあがる。効率は悪いが、たぶん飽きずにテンションを保ち続けられる方法なんじゃないか。自分の書いたものを読み返すのが苦ではなくてよかった。
ちょうどよくネタができたので、実験してみるつもりだ。
6月23日
かなむらさんの日記(6/17)に、「『現実』の『二次創作』」という言葉が出てきてびっくりした。意味は違っているだろうが、ちょうど私が考えていた時期に出てきた言葉だったため印象に残った。
新裏庭 – いつもさみしく、どこかあかるい、フィクションと文章の世界
『プラハの墓地』が文庫になる……?! 東京創元社のメルマガに目を通して二度見した。初めてのウンベルト・エーコはこの本だった。経緯は知らないが、実家の父の部屋にあったのでペラペラ読んだのだった。世論を変えた一冊の偽書の作者と偽書を巡る話だった気がする。そろそろ『パウドリーノ』を読んだ方がいい。絶対好きだなと思いながらまだ読めていない作品の1つだ。
『言葉と歩く日記』に「小説家は、日本語の「わたし」も「彼」も人称代名詞でないと考えた方がいい」とあって、確かにそうかもしれない、と思った。「石」や「ノート」と同じように、文章中で主体となっている名詞、能動的であることを示す単語として使えばいいのかもしれない。たとえば「我思う、故に我あり」は、「わたしが思っている、だからわたしという存在がある」のようになり、「わたし」という主体が「思う」という行動をしていることが、「わたし」が存在していることの証となるのだろう。
6月24日
グリーンサムで買ったハーブティーが私好みで嬉しい。レモングラスのハーブティーはよく祖母が作ってくれたから、味をなんとなく覚えている。
シナリオ書きの友人と創作について話す。「一次創作」は「現実」の二次創作みたいなもの、と以前書いたことを言ってみたところ、思いもよらない返事が返ってきて驚いた。「二次創作」という言葉のイメージは人それぞれ違っているため、例えには向かないかもしれないと気づいた。
夫に考えたことを話しているうちに、そもそも「創作」という言葉に違和を感じるなと思った。私は本当に「創作」をしているのか?
6月25日
「創作」は様々なものにたとえられる。建築だったり、積み木だったり、人形劇だったり。私にとって「創作」は、何を示しているのだろう。
「作ろう」と思って作り始めたことは、ほとんどない。大抵、そういう動機で書き始めるとぎこちなくなり、本当に書きたかったものを見失う。「創作」が向いていないと思うこともあった。思い通りに書けないといけないものだ、と思っていたからだ。創作「Howto」とされているものには、「作り方」が書かれている。だから、小説は作りあげるもの」だと思い込んでいた。作るためにはパワーがいる。だから書けない。というのが、ここ数年の私だった。
最近ぼんやりと気づいたこととして、私の書き方は万人向けの理論にあてはまらないこと、コントロールが難しいこと、などがある。以下、流れを簡単にまとめてみた。
・ふとしたきっかけで、風景や会話が見えたり聞こえたりする
・なぜそのような場面になったのか、会話になったのかなどをその世界にいる人になったつもりで見てみる
・広がってきた世界を書き起こしていく
・他者に伝わるように整える
これを繰り返すと、だんだん目に見える部分が広がっていく。目に見える部分を元に、見えない部分を想像してさらに広げていく。
たぶん、蓄積されている見たものや聞いたことがふと意識の深みで"何か"を発生させ、それを掘り下げていっているのかもしれない。先が見えない楽しさを味わうために書いているのか……。自己研究? そう、研究に近いものがある。実験を繰り返して、小説が「できる」。
日比野コレコ「ビューティフルからビューティフルへ」を読んだ。最近小説が読めてなかったし短いし、と一行読んだら止まらなくなった。文章の走り方が気持ちよくて、声に出したら楽しいだろうなと思った。
今夜はちょっと肌寒いからー、そうだ、ぶかぶかで表面的ですぐ脱ぎ着できちゃう、希望を羽織っていこう。対して、絶望は静のおなかのなかでちゃんと胎動している。ほら今だって、絶望がおなかを蹴った。こう、わたし、熱々の絶望のあんこを、薄くて透明な希望のおもちで包んでるみたいなすてきな人間だ。そう思いながら静はベルトを苦しいくらいぎゅっと締めた。
『文藝』2022年秋号 p.103
こういうの、ね。こういうのだよ。
6月26日
日本・スウェーデン戦を夫が見ている。いそいそ勉強していそいそ小説を書いた。ふむ……。
「キャラクター」というものについて考えている。人間を掘り下げていくと小説ができるということは、知っている人は知っていることだったようだ。自力でそこに辿り着けていたんだなと思って嬉しくなる。「キャラクター」というとなんだか人形みたいなので、私は"人間"や"人物"と呼んでいる。
ふと端末に残していたメモを見ていたら、1月にこんなことを書いていた。
ものを書くことは私的なことだろうか。一つのものに執着して固めることになるのだろうか。否、私という存在をばらばらに分解してしまう作業であると思う。ひとつまみの私の欠片を入れて寝かせてオーブンへ。ふっくらと焼きあがったものが小説である。粉々になった欠片は小さすぎて、もう私とは言えないだろう。私とは要素が集まってできた集合体にすぎない。と思っている私は本当に私なのだろうか。誰かの言葉をそのまま繰り返しているだけではないだろうか。あるいは様々な言葉に感化されて考えさせられたことか。私とはいったいどこにあるのだろうか。
1月のメモより
本当はもう少し続いていて、詩のような終わり方になっていたのだが、ここには書かない。たぶん、小説のどこかに出てくるだろう。
それに対する返歌がこちら。
小説は私であり、私でないもの。確かに私の一部が含まれているけれどすべてが私ではなくて、たくさんの心が散らばっている。私という成分でできた何か。再構成している? これも編集なのかも知れないけれど、たぶん今の私しか今の私は作れない。生存記録かもしれない。
小説を書くことは、思考の記録を残すこと、と同義なのかもな。
6月27日
うーん、寝起き、とっても身体が重い。ぎりぎり勉強会には参加したが、そのあとはぐだぐだである。こういう日はとことんインプットするに限る。私の習性を考えると、夜くらいに書きたくなってくる。たぶん。
やきとりさんのvlogをたまに見ている。飾り気のない声を聞いていると、気分がフラットになっていい。「やるぞ!」という感覚ではなく、「ぼちぼちやるかな」くらいのゆるいやる気が出てくる。やる気のハードルが下がる、みたいな。気分が重いとき、とても助かっている。
小野不由美『十二国記 月の影 影の海』を読む。世界史勉強会でおすすめされていたので、読むか~と気楽に開いたら、おもしろくって上下巻読んでしまった。
『魔性の子』が素晴らしくよかったので続きを読むタイミングを失い、読まなきゃなあと思いながら今に至る。『月の影 影の海』に名前が出てきたときひっくり返ってしまった。『魔性の子』を読んだときの記憶がどっとよみがえってきてあわてる。久しぶりだなこの感覚。
わーっとなってとりあえず読んでいたであろう母親にLINEを送った。どうしようもない気持ちを静めて、小説の続きに取り組んでいたら真夜中になってしまった。
6月28日
朝(昼?)、とりあえず最後まで書き終える。思いの外長くなってしまったが、一旦終わりである。今までにないくらい人物メインで進んでいったので、本当に先が読めず、思い描くラストがころころ変わった。結局こうなったのはどうしてなのか自分でも説明できない。それくらい、ストーリーを人物に委ねていた。
少し空腹の状態の方が頭が働く、と『思考の整理学』で読んだのだが、その通りであるような気がする。書き終えた途端、どっと空腹がやってくるため、すぐに食べられるものを用意しておくのが良さそうだ。
もりもり食べてすやすや眠った。
6月29日
よく眠れた日。朝からフォカッチャを食べて大満足。次に書きたいもののことについて考えている。
『言葉と歩く日記』に、手書きの良さが綴られていた。手で書くときと、こうして文字を打ち込むときの思考が違うと感じることが私にもある。今ある感情を写し取ってくれるのが手書き、それを整理して並べていくのが打ち込み、であるような気がする。どちらにせよ、私の思考はまず手書きされ、他人へと伝えられていく。その方が気持ちが楽だ。しゃべるときも、何を言って何を言わないかを選ぶことができる。だからアドリブって苦手なのかも、と思ったりした。
6月30日
なんだかよくわからないが疲れ果ててしまった。空回りしているような感覚。
台北の写真を見て、なつかしくなる。私がおもに滞在していたのは台南だったけれど、台北も楽しかったな。何も予備知識を持たずに行ってしまったので、情報源がホテルでもらった地図しかなかった。観光というより散歩のような感覚で、たまたま見つけた廟に弘法大師の像がいて驚き(台北天后宮というらしい)、日本式の寺の鐘(西本願寺)で犬が駆け回るのを眺めたり、西門紅樓ぼーっと見た。総督府近くも歩いたのになぜか中正紀念堂に行っていない。博物館とか、もっと調べておけばよかったな……。一通り観光地には行ったけれど、自分の意思、というよりはついていった感覚が残っている。行ったら行ったで楽しかったのだけれど、とことん受け身だったなと思う。ちゃんと知って、改めて台湾を楽しみに行きたい。
アニメ「とんがり帽子のアトリエ」を見た。11話のキーフリーの言葉が突き刺さる。うっそうですね……。この世界の「魔法」というものは、言葉でもあると感じた。最初は描く手法から絵を描くことそのものかと思っていたのだが、扱いによっては人を生かしも苦しめもするところが"言葉"だとなんとなく思った。12話、キーフリーの「簡単に恐ろしいことができてしまうことを自覚しているものが少ないのも恐ろしい」という言葉が胸に響く。争いは、武器があるから起こるのではない。武器を向ける方向が決まったときに起こるのだ、と私は考えている。一人一人のの胸にあるそれぞれのストーリー(日本語では物語と訳されるが、イタリア語の「storia」は「歴史」のことである)が、幸せや不幸の元になっている。そんな気がしてならない。