1週間、本を読みながら生活している守宮の様子をお届けします。
腱鞘炎がだんだん回復してきました。本は思っているより重いです。油断しているといろいろなところを痛めてしまう年頃なので、日ごろから気をつけていきたいですね。
週刊読書日記(8/24-8/30)
通勤時間が長いと、本を読む時間が増えて嬉しい。
行きの時間は、イタリア語の単語の復習をしているのだが、帰りはもりもり本を読んでいる。
待ち時間の暑さも人の多さも、本の中に逃げ込んでしまえば忘れられる気がして、ついつい本を開いてしまう。本当は移動中、ぼーっと外を眺めていたいのだが、窓に沿った座席ではなかなかそれも難しい。
今週は2冊、先週から読んでいた本を読み終えた。どちらも重く、胸の中に沈んでいくような本だった。
『ルポ 誰が国語力を殺すのか』の話
読み途中の『スマホ時代の哲学』にあげられていて知った本。かなりセンセーショナルなタイトルだが、中身はしっかりとした取材に基づいて構成され、読み応えのある本だった。現在起きていることを中心とした子どもの実態から問題点をあげた上で、解決しようと試みている事例をあげられており、希望が持ててよかった。
作者は「国語力」のことを「社会という荒波に向かって漕ぎだすのに必要な「心の船」」だと定義している。実際に言葉をうまく使えない環境にあった子どもたちの事例を読んでいると、言葉とは道具なのだと思い知らされる。包丁と同じようにうまく使えば便利だが、使い方がわからないままでは自分や他人を傷つける。
私自身、言葉を適当に使ってしまうこともあるため、この本で指摘されている問題点を自分事としてとらえた。自分の中で言葉をこねくり回すのが得意でも、他人に伝えるすべを知らなければ意味がない。「伝える力」が足りていないな、と思う。苦手だからと言って避けてきたつけが回ってきたのだろう。周りの人たちの気遣いのおかげで、今までなんとかなってきたのだと思う。
やはり、子どものころからたくさんの価値観に触れ、喧嘩して仲直りしたり、意見を交わし合ったりする機会があることが大切だと改めて思った。学校という場所が嫌いだった理由が、ようやくわかった気がする。私は「みんな仲良く」なんてことはしたくなかったし、誰かとずっと一緒にいるなんてことはもっとできなかった。他クラスの子たちとよく話し、自分のクラスに居付かないことを「協調力がない」と決めつけられたのが嫌で、一人でいても平気な場所を探して転校した。大学生活が楽しかったことを思えば、一人でいる時間を肯定される環境がほしかったのだろう。その頃、もやもやした霧のようなものでおおわれていたものが、やっと晴れたような心持になった。
言葉はすべての学問の根幹にある。本の7章、8章で語られる言葉の教育のための取り組みを読んで、特にそう思った。言葉を適切に使えてこそ、ディベート教育も、課外授業も、芸術鑑賞も生きてくる。新しいことを詰め込んだとしても、言葉で伝え、言葉を聞き、自分と他人をつなげることができなければ意味がないのだ。
ちょうど昨日、私は誕生日を迎えた。次の誕生日まで、一つ一つの言葉を大切に使うことを意識しながら過ごしたいと考えている。
石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』文藝春秋(2022)
格差、SNS、友達関係…子供たちの置かれ...『ルポ 誰が国語力を殺すのか』石井光太 | 単行本 - 文藝春秋
『欲しがりません勝つまでは』の話
作者の田辺聖子のことは知っていた。母の持っていた本の中に、彼女が訳した古典文学作品があったからだ。日本古典文学の研究者なのかと思っていたが、作家だった。そんな彼女が戦時中の生活を書き残しているという。これは読まなければ、といそいそと本を開いた。
すると、想像以上に明るい生活が描かれていて驚いた。戦争が激化していない頃は、日常生活の中にするりと入りこんでいて、少しずつ少しずつ民を抑圧していったのだと思った。だから、気づかないうちに戦で命を落とすことが崇高だと考えたり、そのような生き方が正しいのだと思わされる。
一番心に残った言葉をあげておく。樟蔭女専国文科に入学した作者のクラスメイト、「竹本サン」が国の危急存亡のために働きたい、と訴えたあとに「友成先生」が言った言葉である。
「憂国の至情というより、私情の方ではないかね。新聞やらラジオのせいでよくのぼせるものがいるが、みなさんはかりにもインテリのはしくれ、物ごとというものはよく考えてから本質を見通す訓練をしなければいかん。人に煽られたり、世間におだてられたりしては、知識階級とはいえない。こういう時節であるから、よけい、軽々しく動いてはいけない。いつかは戦争も終わる。みなさんの学問がまた役に立つ時代もくる。学問は戦争にも滅びない」
――田辺聖子『欲しがりません勝つまでは』p.227より
雑誌「少女の友」から中原淳一の絵が消えたり、紙質のいいノートが手に入らなくなったり、カレー粉と芋ご飯でささやかなカレーライスを食べながら洋食に思いを馳せたりする一方で、女学校の仲間と回覧雑誌を作ったり、本を読みまくり文体をまねた小説を書き綴ったりしている田辺さんの生活は、当時としてはかなり上流の生活だと言えよう。けれど、家が燃えて集めた本がすべて灰になり、諦念に侵されて民族自決のことばかり考えるようになっていくさまは読んでいてつらかった。戦争は、物理的にも精神的にも国民を貧しくさせる。そのことが身に染みて理解できたような気がする。
戦後、貧しかった生活ががらりと変わるなんてことはなく、生きるために必死になっていく。戦争の終わりはみんな死ぬのだという考えから、生き延びるために古典を読みふけり、家族のために知恵を絞る田辺さんの姿になんだかしみじみとしてしまった。大変なのは変わらないけれど、生きることに必死になっている様子にほっと一息つくことができた。
生活を黒く塗りつぶしていくようにじわじわと侵食していく、戦争という行為に向けた時局がどんなに恐ろしいことなのか。「戦争反対」と表明する言葉を、ようやく重みを持って発することができる気がした。
田辺聖子『欲しがりません勝つまでは』光文社文庫(2025)