1週間、本を読みながら生活している守宮の様子をお届けします。
ようやく秋めいてきて、過ごしやすい時間帯が増えてきました。昼間はまだまだ暑いですね。先週はなんだか猫に遭遇する確率が高かった気がします。夏から秋になる、透明な空気感が好きです。
週刊読書日記(9/14-9/20)
今週は6冊読んだ。先週から読んでいた本が1冊、漫画が2冊。「今週はあまり読めなかった……」などと思っていたものの、全然そんなことはなかった。
フォロワーさんが出した同人誌をひたすら読み返していた。大まかな流れを覚えていても、細かな描写は忘れていたので新鮮な気持ちでいた。1回目に読んだ時より、胸の奥に届いている感覚がある。それはきっと、主人公たちと同じくらいの時期のことについて、ようやく思い返せるようになったからだろう。自らの成長も感じられる読書体験ができて嬉しい。
『数字であそぼ。』の話
作者の絹田村子さんを知ったのは、『さんすくみ』を読んだ時だ。神社、教会、寺を継ぐだろう青年たちのゆるっとしたコメディで、こんなに面白い漫画があるんだ!と思いながら読んでいた。最終巻を読んで思わず涙したのを覚えている(続きがないことが悲しくて)。『動物のお医者さん』の最終巻でも同じような気持ちになる。何回読み返しても物悲しい気持ちになるので最終巻だけ読んでいる回数が少ない。もうこの日常を見ることはできないんだ、と思うから日常系コメディは最終巻でつらくなる。
だから、この作品の存在は知っていてもなかなか読み始められなかった。読み始めたら終わりが来る。おもしろいとわかっているからこそ読みたくない、そういう気持ちを抱いていた。今回読もうと思ったのは、”数学”という学問に興味を持ったからだ。
学生時代の私にとって”数学”は、天敵以外の何物でもなかった。基礎から応用に移るのが早すぎて、理解するまでに至っていなかったのが原因だと思っている。じっくり取り組もうにも課題の期日が迫っていたりして、ちんぷんかんぷんのまま義務教育を終えてしまった。”数学”はずっと苦手だったし、もう見るのも嫌になってしまっていた。
きっとそれは理解するまで取り組んでいなかったからだ、と気づいてから少し気持ちが楽になった。”数学”とは、数と記号について解釈しようとしている学問なのだと気づいたのも大きいかもしれない。文学が作家の作品を解釈するのとそう変わらない。ただ、対象が異なっているだけ。それから、一度きちんと”数学”をやりなおしたいと思ってきた。『数字であそぼ。』はその、やりなおしの一歩として読んだのだ。
案の定、おもしろかった。笑いとしてのおもしろさだけでなく、興味を深めるものとしてのおもしろさもある。”わかる”という境地に至るまでのプロセスが丁寧に描かれていて、数学に限らず、学問全体への興味が深まる作品だなと思った。あと、世間では”変人”とされるようなひとたちがたくさん出てくるのもよい。昔から私はそういう”世間から外れたひと”が好きなのだが、それは私が”普通”であるからだと思っていた。それが夫によると私も”変人”らしい。「”変人”なんですか?私が?へえ~」と驚いた記憶がある。もしかすると、今までの”好き”は”仲間”のようだから見守りたかったのかもしれないなとふと思った。
絹田村子『数字であそぼ。』小学館(2019~)
『数字であそぼ。』 絹田村子 | 「月刊flowers」公式サイト|小学館
『自分の感受性くらい』の話
茨木のり子さんの詩集を読むことを、今年のやりたいことリストに入れていた。それを最近思い出して、なんとなく今だと思って読んだのがこの作品だ。
読みたい本を読むタイミングを見定めるのは難しい。特に、「今じゃないけどいつか読みたい」という薄ぼんやりとした読書欲求があるときは。”いつか”っていつだよ、という話になってどんどん先送りにされて行ってしまう。だからまあ、思い出した時が読み時だと勝手に思っている。
『自分の感受性くらい』はたまたま書名を見かけたから、印象に残っていた。一番有名な作品じゃなかろうか。私は茨木のり子さんの詩を読むのは初めてだったから、まずはここからと思ったのかもしれない。
開いてみて、「詩集と刺繍」という作品を読んで、「あ、好きだな」と思った。詩というより、日記に近いかもしれない。日記のような詩のような、そういう文章は、「365日詩を書く」という行為の中で私の中にも生まれたことがある。大きな社会現象や概念ではなく、すぐそばにある日常を詠むこと。感動や思いを率直に表現できるのが詩のよさの1つだと思っている。
私が好きなのは「友人」「夏の声」「二人の左官屋」「青梅街道」「詩集と刺繍」あたりである。一番有名だろう「自分の感受性くらい」はそこまでよいとは思わなかった。私の解釈の問題かもしれない。あくまで私はこう思った、ということを以下に述べる。
感受性を失う人はたくさんいる。環境のせいだったり、自身の変化だったり、ひとによって理由は様々だが、失ったことを責め立てるものではないと思うからだ。取り戻したいときにまた取り戻せばいい。それは人から強制されるものではない。人間はマグロではないのだから、泳ぎ続けることは不可能だ。確かに”走り続ける”という生き方もあるが、それだけが人生ではないと最近思う。現代は、”何か”のためだけに生きる、という時代ではないような気がするのだ。人を思いやることだって、気づかぬうちに失うこともある。たいてい、そういう時は、自分に余裕がなかったり、体調が悪かったりしているものだ。そういうものを自分でコントロールできるという思い込みが社会を窮屈にしている一因ではないだろうか、と思う。
今ふっと思ったことだが、この作品は感受性を”自ら捨てている”ひとたちに向けて書かれているのかもしれない。どうして自分がそのような状態なのか、を深く考えることなくすぐさま「時代のせい」にしてしまうようなひと。そういう人はそもそも感受性を失っている状態にすら気づかない。気づかないうちに「自分の感受性」を失って世間に流されていく。そのことに警鐘を鳴らしているのかな、と思ったり。
読み方が無限にある気がする詩のことが、やっぱり好きだ。
茨木のり子『自分の感受性くらい』岩波書店・岩波現代文庫(2025)