自然的理性に基づく神学とは別に、神的な啓示による聖教は必要だとトマスは言うのだが、ここであらためて、その聖教というのは「学」scientia(サイエンスの語源ですな)なのか?という疑問を提示する。自分もこれはとても気になっている。だって聖教って信仰と変わんなくない?と。別に「学」と言わなくても特に困らないような気がするのだが......。
トマスの結論は「学だ」というものである。もうこの時点でトマスの言ってることが読めなくなってきているのかもしれないが、とにかくその主張を見てみよう。いつもの通り、まずは異論の、つまり「学なんかじゃない」という異論の紹介からだ。
①学はすべて自明な基本命題からスタートするもの。でも、聖教は信仰からスタートする。信仰は持ってない人だっているのだから、自明ではないし、つまり聖教は学ではない。
②個別のものに関わるのは学じゃない。それなのに聖教はアブラハムだのイサクだのばっかり扱ってる......。だから聖教は学じゃない。
で、これに対してトマスは「聖教は学だ」を主張する。そのロジックなのだが、トマスによれば「学」には2種類あるという。一つは基本命題 principiaからスタートする学問。幾何学や数学などだ。もう一つは「上位の学」が明らかにしてくれた基本命題から出発する。トマスが例に出しているのは光学だ。これは幾何学が明らかにした基本命題からスタートしている。
聖教はこの2番目の「他の上位の学が明らかにしてくれてる基本命題から出発する」タイプの学だとトマスは主張する。
じゃあ、聖教の「上位の学」とは一体何なのかって話だが、「神ならびに至福なる者たちにおける知 scientia」がそれだという。ここで「知」と訳されているものは「学」と訳されているものと同じscientiaだ。「至福なる者」ってのが何なのかわからないので、とりあえず無視をするが、要するに「神の知」という確実なものをベースにして、そこからスタートしているんだから聖教も学だということらしい。
納得するだろうか。正直、異論の内容を単に自分に都合よく言い換えただけな気もする。というのも「聖教は学ではない」派からすれば「だから、その啓示とか神ってのをそもそも信じてない人もいるわけですよね?」「自明じゃないですよね?」と抗弁できるわけでしょ。
ここまでしてなぜ[* 「哲学でも信仰でもない学=知としての聖教」]にトマスがこだわるのかもこれだけだとよくわからない。が、ともかくまだ序の口も序の口だ。先を読み進めることにしよう。
あ、ちなみに②の異論については「倫理学でも原理原則だけじゃなくて個別のケースの話するでしょ。あれと同じようなもんでしょ」とバッサリ。こちらのトマスの反論については「まあそうだろうな」と思う。