今年の夏のある日、研究室にカメムシが入ってきた。外に出すのに何かつまむもの…と少し探したが、まあいいかと手で外に出すことにした。なぜカメムシなんか触ってみようと思ったのかと言うと、少し思ったことがあったのだ。
俺は生き物好きで、一日中虫を捕まえて遊んでいるような子供だった。そう、だった。今でも生き物は好きだし、自分ではまだ20代後半になっても子供のまま大して変わっていないかのような気分がする。だから先日道端にトカゲがいたから捕まえてみようとしてショックを受けた。つかみ取ろうと忍び寄って手を出そうとするが、出ない。あれ、どれぐらいの勢いで手を出していたっけか…勢いあまって潰してしまわないだろうか、と加減がわからない。おそるおそるゆっくり手を出すとトカゲは茂みの中に逃げていき、俺はカサカサともう届かない距離の茂みを走るトカゲの音を聞きながら、ああ、子供のころなら茂みに手を突っ込んで捕まえたろうに、それすら躊躇うようになってしまったかと悲しい気持ちで考えていた。
俺はまだ虫を取っている子供の心のままのつもりが、嫌なところで大人になってしまった。大人になったというよりは、子供でなくなったというほうが正しいか。子供の頃、なんとなくいけすかないと思っていたような感じの大人になったようだ。同じ生き物なのに汚がって怖がって、大人たちは嫌な奴だと思っていた。それがしらないうちに"嫌な大人"の一人になってしまったのだろうか。地面を這って、茂みに頭を突っ込んで、虫なんか毎日手づかみでとっていたのに。
だから昔採っていた虫たちを思い出すとカメムシの臭いさえもなんだか懐かしい気がしてきた。カメムシは臭いから嫌なやつだとそのときは思っていた。だがあの手にこびりついて取れない臭いを最後に嗅いだのはいつだろうか。あの嫌な臭いさえも、どこかに忘れてしまった大切なものの一部のような気がした。だから触ってみようなどと思ったのである。
一匹でちょこまかと歩いていると結構可愛いらしいじゃないか。カメムシが歩いていく方向に指を置いてじっと待ってみる。暫く待っていると登ってきた。カメムシの乗った指を上げて近くで見てみる。緑色のまるっこい体やぴこぴこ動く触覚は改めて見ると愛嬌がある。少し眺めて外に出した。カメムシを乗せた指は臭くなかった。あの匂いは威嚇の一種だから、そっと触れば大丈夫なのだ。虫を掴む加減はわからなくなってしまったが、少し心のゆとりはできたのかもしれない。
多分初めてカメムシを可愛いと思った。自分の変わりたくなかった部分が変わってしまい寂しい気持ちがあった。だが、悪いことだけではないのだ。なんとなく自分を許せたような気がした。
また別の日に研究室にカメムシが入ってきた。虫が嫌いな人がいて丸めた紙で潰されてしまいそうだったので、さっと掴んで外に出した。臭かった。